MIA V – Ⅸ⑷

雨の日は眠い。ふと気がつくと、いつの間にか眠り込んでしまっていた。TV画面では映画のエンドロールが流れている。スンのほうを見やったが席にはいなかった。彼を探すように部屋を見渡すと、目線のちょうど先に彼はいて、友人とげらげら笑いながら立ち話をしている。寝違えたのか首が痛い。相席を見ると、いつの間にかソフィが座っていて、僕は素直にどきりとする。彼女はいつからここにいたのだろう?まぶたを閉じていて、彼女も眠っているようだった。
控えめに言って、ソフィと過ごす時間は心地の良いものだった。けれど、ソフィに対して恋愛感情は持つべきではないと思っていた。いつかの、あるいは、すぐさきの未来で別れなくてはいけないことを知っていて、好きになるべきではない。その気持ちは咎めのように僕の心に碇を下ろしていた。変化に富んだこの数ヶ月で、僕はすこし「オトナ」になっていたはずなのだ。一過性の感情に身を任せることなく、持ちうる理性を優先し、ときに損得を計算し、確実に仕事をこなし、それでいて必要以上に主張せず、極端に言えば人間に干渉しないこと。それこそが、発生しうる種々の問題から遠ざかるための正しい判断だと、信じていた。僕は自分を律すること、コントロールすることを覚えつつあったのだ。問題を寄せ付けないこと。自分を取り巻く世界に対して作り上げた、高い壁があった。けれど、ソフィは特別な力を持っていた。僕の心の障壁に出来た隙間から(まるで土壁の水分が抜け出し、ひび割れていくかのようにできたやむを得ない隙間から)彼女はやすやすと侵入した。そして我が優秀なる門番はソフィの通過を許していた。隣で眠るソフィの前髪をすくい目元から除けた。少女のように安心して、すっかり眠り込んでいるソフィの寝顔を見つめていると胸が痛んだ。今にも障壁は崩れそうにだった。僕は僕自身を肯定するかのように、ソフィのおでこに軽くキスをした。外ではまだ雨が降りつづいていて、その音は彼女との隔たりをより濃密にさせた。にわかにソフィが目を覚まし、僕たちは見つめ合う格好になった。とたん、ふたりの間に磁場が出来たかのように引き寄せられふたりの唇は重なっていた。逃れようはなかった。他にいったいどんな選択肢があったというのだろうか?

ひと月後の午後、僕たちは真夏のブリスベン国際空港にいた。ソフィの帰国に立会うためだ。この一ヶ月間、ソフィと僕は、できる限りの時間を一緒に過ごした。食材の買い出しも、夕食作りも、中庭で過ごす夕べの時間も、大切な慣わしのように続いていた。ソフィの滞在ビザが残り少ないという事実を知ったのは、停電のTVルームを過ごした日の夜だった。それからは一日いち日が駆け足で去っていくように感じられた。限られた時間の中で僕たちは貪るように繋がりを求めた。依然として会話が少なかったが、その代わりにソフィのスケッチがあり、僕のギターがあり、肌どうしの触れ合いがあった。今やふたりで過ごすことがファーム生活での基盤となっていた。

その日のブリスベン国際空港は旅行客が多く、そこにいる全員が楽しみのための興奮で満たされているようだった。仮に、北半球から来た人からすれば、南半球のオーストラリアは真逆の季節である。冬の地から真夏にやってきたことによる環境の変化は、無条件に人間を活動的にさせるものなのかもしれない。けれど、それとは対照的に僕たちの間には拭いきれない寂しみが纏っていた。空港での雰囲気に圧倒されそうで、僕は努めて笑った。空港内では、航空券の発券カウンターにいるときも、ターミナルのカフェでテイクアウトのコーヒーを待つときも、souvenir shopで彼女の家族のための土産物を選ぶときも、ソフィは、決して僕の手を離すことはなかった。僕の手はごつごつして黄色く、ソフィの手は滑らかに白かった。僕はソフィの手を握り返した。そうしながら、自分のことを慰めていたのかもしれない。

いくつかの出港準備を終え、搭乗待合の椅子に落ち着くと、タスクをこなしたことによる小さな達成感を二人で感じていた。ソフィに笑顔が見られ、僕は安堵した。またいつでも会えるような、2〜3日だけ留守にする小旅行へ彼女を送り出すような、不思議な気楽さすら感じていた。テイクアウトしたコーヒーを飲んでいると、ソフィが搭乗する予定のパリ行きの便名がモニターに表示された。その表示は、僕たちを一気に現実へと引き戻した。ソフィと目があっても僕は気の利いたことも言えず、ただ目を逸らしてしまった。時間が経つにつれて出港モニターから、飛び立った便が消えてはまたひとつ新たな便が追加される。更新され続けるモニターを見ていても、すべては無意味な記号だった。モニターの中のデジタルフリップが、パタンと音を立て、時を進めた。それは、まるで罰の宣告を待つような気分にさせた。僕の目に映るものはパリ行きの便を表示した列だけだった。僕たちは、しずかに並んで椅子に座っていた。

ソフィの手が、僕から離されたのはその後しばらく経ってからだった。搭乗の時刻が近づいているのだ。ソフィは立ち上がり、正面を見つめる。にわかに僕の方を向いたソフィは笑っていた。凛とした澄んだ目をすこしほそめてこう言った。「ナオといられて楽しかった。」「うん。俺もだよ。ありがとう。」「嬉しかった。中庭で、出会ったこと。」「そうだね。ほんとうに会えてよかった。」そのあと一度だけ固くハグをして、僕たちは別れた。僕たちは、いま、もう「僕たち」ではなくなった。搭乗ゲートへ向かう間、ソフィはついに一度も後ろを振り返ることはなかった。僕はただ、他の旅行者と見分けがつかなくなるまで、ソフィの背中を見つめていた。

僕たちは、未来になんの約束もしてはいなかった。連絡先も交換しなかった。そして、決して口には出さなかったけれど、そうなるだろう未来を、出会った時から共有していた。だから、僕に残ったのはソフィの記憶だけだ。さっきまでソフィが座っていた座席に手を置くと、ひんやりとした冷たさを感じる。もはやソフィの痕跡の何もが残っていないことを確認する。ついに振り返らなかったソフィが、どんな顔でいたのか僕は知らない。けれど、きっとソフィらしい微笑をたたえていたはずだと僕は思っている。それでも、すこしくらいは涙が滲んでいてほしいとは思うけれど。

「さようなら、ソフィ」

2021 Memories in Australia. (c)Naohiro Kosa
#ストーリーテリング

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