V
フレッドのレンタルビデオ店の二階にある住居の賃料は、週に390㌦(一日に直すと28㌦)で、これはシドニー市内のゲストハウスに滞在し続けるよりも経済的である。晶馬は今、シドニー滞在を続けるための十分な資金を持っていた。ゴールドコーストでの騒動から、一時は金が尽きかけて、路上生活をするほかないというところまで落ち込んだ日々を懐かしんだ。そこから流れついたバンダバーグの農場では仕事がある日はすべて出勤したし、山の乗馬クラブでの生活は週に一度の買い出しに限られていたから、支出が収入を超えることはまず無かった。わずか半年足らずの間に、急降下、そこからのどん底を経験し、今ようやく平地が見え始めている。自分の無計画ぶりには(自分ごとながら)愛想がつきかけているものの、振り返れば、まあ何とかなっていることに気がつく。所持金の大半は銀行に入っている。これだけあれば仕事をしなくても2か月は過ごせるだろう。夕暮れのチャイナタウンを歩く。観光客としてではなく、つかの間ではあってもこの町の住人として。公衆電話を見つけたタイミングで、立ち止まり、晶馬はポケットから紙切れを取り出した。ノートに挟んであった、ちいさなメモだ。書いてある番号を正確に打ち込み、呼び出し音を待った。「Who’s this?」
晶馬は日本語で「もしもし、斉藤です」と尋ねた。一瞬、沈黙があり「ああ、斉藤くんか。ヌーサぶりだよね!元気にしていた?」とトウジさんの元気な声が返ってきた。「驚かせてすみません。今、シドニーの公衆電話から掛けてます。先日、この街に戻ってきました。トウジさんは今、シドニーですか?」トウジさんはシドニー近郊の街、パラマッタに住んでいるという。「明日なら時間が取れそうだから、朝10時にセントラル駅で待ち合わせよう」トウジさんに会えることは、本当に嬉しいことだった。ヌーサヘッズでトウジさんに出会わなければ、一体どうなっていただろう。そう考えるだけでゾッとした。運が良かったといえばそうかもしれないが、世の中には自分の力ではどうにもならないことがある、一人で出来ることなどは高が知れていると思っていた。晶馬は案外冷めた目で自分の上限を見定めていたのだ。そのせいで、やっても無駄だろうことにはがむしゃらに向かおうともせず、それだけでなく、そういう人を冷静に見る節があった。出来ることしかしない、という姿勢として評価されることも多々ある。しかしながら、その固執した考えは間違いだろう。なぜなら、どん底の生活を迫られるほどに失敗しているからだ。もしも自分が合っていたなら、物語はこう悪い方向へと向かうことはなかったのではないだろうか。あの日、ヌーサで晶馬はトウジに出会った。トウジは、晶馬に再挑戦の機会(チャンス)を与えた。僕はその機会を活かしきれただろうか?答えは「イエス」である。こうして、先数ヶ月のシドニー滞在を続けることができる未来を得たこと、がその根拠である。晶馬は、周りに助けられて生きているのだと、つくづく思うのだった。かくして、晶馬はセントラル駅でトウジさんを待っていた。さまざまな人が行き交うゲートウェイ。人混みの中、見慣れた姿が見えたように思えたが人違いであることに気が付く。はたしてトウジを見分けることができるだろうか。その時、トントンと晶馬の肩を叩くひとがあった。トウジさんだった。
トウジは、晶馬の肩を叩いた。真っ黒に日焼けしていて以前は掛けていなかった眼鏡を掛けているものだから、晶馬は一瞬誰だか分らなかった。ヌーサで出会ってからすでに半年近い年月が経っている。人の見た目などすぐに変わるのだ。「元気だったか、斉藤君」そう言って嬉しそうに笑顔を見せてくれた。ピンチの場面で出会った恩人に、危機を脱した今こうして再会できることは晶馬を嬉しくさせた。二人でセントラル駅近くのパブに入った。晶馬がトイレに行っている間に、ビールを頼んでおいてくれる辺り、さすがである。すでにビールが届いていることに気が付いた晶馬が財布を出そうとすると、トウジは払わなくていい、これは僕が払っておくと言った。晶馬は、トウジに昨日の電話で、借りていたお金を返せるようになったこと、バンダバーグでの日々について軽く話をしていた。もしかしたらまた金の無心をされるのではないかと思われる可能性だってあった。トウジさんにいらぬ心配を掛けたくはなかったのだ。だから今日は、お互いの近況報告を兼ねた気さくな再会という段取りが整っている。さっそく、封筒に包んでおいたお金をトウジさんに渡した。4枚の50ドル札。借りたお金は100ドルだったが、出来る限りのことをしてお礼をしたいと考えた結果が倍にすることだったのだ。封筒を渡すと、トウジは「お疲れさま、よく頑張ったね」と言ってくれるのだった。封筒の中身を確認しようとすらしないトウジには感服したが、それ故にトウジはトウジなのだと思わされた。二杯目のビールは晶馬が払った。お金を受け取ろうとしない晶馬にトウジは困った顔をしたが、最後には、わかったわかった。このビールはご馳走になるよ、と言った。トウジは今、仲間と共にパラマッタに拠点を構えて、邦人旅行者向けのエージェントを設立する準備をしているとのことだった。会社設立のために各所へ奔走しているところだという。条例や法律などの話になって晶馬にはもう付いていけそうになかったが、トウジはできるだけ嚙み砕いて分かりやすく説明を続けた。晶馬はただただ凄いなあと思うばかりで、トウジへの尊敬は益々深まるばかりだった。世の中には思いもよらないことを考える人がいるものだなあと、感心していた。トウジは生き生きと語り続けた。2,3時間に渡って話を聞いたころ、そろそろお開きにしようと言ったのもトウジだった。セントラル駅まで一緒に歩き、真っ黒に焼けたトウジの背中を見送った。晶馬は思った。僕は自分の人生で何に挑戦したいか。トウジの考えていることには、全然及びもしないし、同じ土俵に立てるとは思ってもいない。けれども、トウジに会うことで晶馬の心に火が付いたことは事実である。トウジと知り合ったことは偶然でしかない。晶馬は善き人々に恵まれている。そのことにただただ感謝した。このところ、満たされた生活が送れるようになってきているのは、只の運任せによるものではない。今いる場所に感謝することや、関りのある人々と向きあうこととか、不完全な自分を受け入れることに他ならないのではないか、と思うようになっていた。ぐーっと、お腹が空いてきた。今夜の晩御飯はジェイの好きな小籠包をテイクアウェイで持ち帰ろう。それと、どんな反応をするかわからないが、チャンの分も買って帰ろうと思ったのだった。
チャンは独り身だ。いつも同じようなシャツを着て、大きなおなかをさすっている。昼ご飯はたいてい徒歩圏内のマーケットや屋台で調達したものを食べている。この部屋に移り住んでから、もうすぐ2週間が経とうとしている。レンタルビデオ店は定休日がないのか、休みなしで開けている。朝早く出ていくジェイコブによれば、チャンが出勤してくるのは8時過ぎらしい。店は10時ごろに開けることになっている。店を開けるまでの時間、チャンは店のコーヒーメーカーで珈琲を作り、経済新聞とシドニー新聞の両方を読んでいる。レジ横にある防犯カメラモニターの横に映画観賞用のモニターが並んでいて、たいてい古いヨーロッパ映画のVHSが再生されていた。晶馬が階下に降りていくときにはすでに店は開いている。ミスター・チャン、おはようございます。晶馬はレジ横を通りすぎる時に短く挨拶をするだけだ。チャンは、たいてい新聞かモニターを見つめていて、晶馬が挨拶をしても、ああ、うん。おはよう、とモゴモゴとした返事が返ってくるばかりで、他人と積極的に関りを持とうとする方ではなかった。晶馬は、チャンのことを理解してみたいと思っていた。いつもの小籠包店には、可愛い女の子がいる。晶馬がその店に足繁く通うのは、もちろんその店の小籠包が美味しいからだという点を強調しておくが、その売り子の女の子がとてもキュートであり常連客の憧れの的であるという事実は非常に重要だ。この日も晶馬は、いつもの品物を注文した。ただし今日は、三人分の量を注文しているため、店先で長く待つことになった。その間、晶馬は看板娘の仕事ぶりを眺めていた。時間帯なのか、しょっちゅう店の電話が鳴っている。その電話にも出ながら、ホールの配膳もこなし、持ち帰り客のために梱包もする。その動きは機敏で、しなやかだった。見とれていると目が合うもので、相手はこちらを見てくれる。恥ずかしさがないわけではなかったが目をそらすのも子供っぽいので、目が合うとニコッと笑顔で会釈した。彼女もにこりとして、その後で「待たせてゴメンね」という風にジェスチャーをしてくれる。これにはドキッとさせられた。男だけでなく、同性にも好かれそうな彼女である。お待たせしました!と渡された小籠包の包みを受け取り、晶馬は中国語のコミュニケーションハンドブックを買おうと決意した。
晶馬は小籠包店の看板娘と話をしたいが為に、日常中国語会話の初学本を探していた。英語/中国語は町の書店に置いてあったが、日本語/中国語の本は見当たらない。そこで、日系大手の紀伊国屋書店シドニー店へ向かうことにした。ここでは、フロアの一角に日本語書籍コーナーがある。小説はもとより、日本の雑誌も数多く手に入れることができた。ファッション紙からビジネス誌までかなりの品揃えだ。この街にそれだけたくさんの日本人が住んでいるということなのだろう。ただし価格は高い。店頭販売価格が定価の2倍~3倍になっているのは、関税がかかっているためである。オーストラリアでは、コークや煙草をはじめとして嗜好品には高い税金が課せられるが、書籍まで高価であるとは。ぶらぶらと文庫コーナーに行き、目についたところの文庫本を手に取る。それは、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だった。人に薦められてはじめて読んだ村上春樹の本だった。何気なく棚を見ていると、村上春樹の作品の間に司馬遼太郎の「坂の上の雲」が棚からはみ出る形で刺さっていることに気がついた。誰かが手に取ったあと、面倒さから適当に置いていったのだろう。しかし、すこしはみ出させているところにを意図を感じた。本を戻そうと思ったんだけど時間がなくってとでも言いたそうな雰囲気だ。この状況、放っておいても、店員であればすぐに気が付くはずだったが、晶馬は元の場所へ戻しておこうと考えた。日本の書店で同じ光景を見ても何もしなかっただろう。けれど、見てしまった以上は妙な因縁を感じてしまった。あるべき場所に戻さずにはいられない、これも日本人たる所以なのかしらと思った。そうだ、村上春樹で思い出す人々がいる。彼、彼女たちについて少し話をしよう。
晶馬はオーストラリアへ入国をした最初3か月間、日本人オーナーのレストラン店に住み込みで働いていた。その店にアルバイトに来ていた地元高校生のベンジャミン(以下、ベンと呼ぶ)とは、お互いがギタリストであることを切っ掛けとして直ぐに打ち解けていた。年齢が近かった僕は、よくベンの家へ招かれることになる。リビングの本棚には、村上春樹の英語版が置いてあった。ベンの両親が親日家のようで、ほかにも壁に日本の伝統的な凧やらお面やらがぶら下がっていた。ベンの家には、トーという名前が付けられた、イングリッシュ・グレイハウンドの犬がいた。(toe:つま先の意味。また、同名の日本が誇るポストロック・バンドがあるが、名付けとは関係がない)トーは、よくギターのハードケースの上に寝そべって上目遣いでこちらを窺っていた。英語圏では、犬も英語を理解して生活しているのだろうか。それだとしたら、僕よりも英語力があるはずだ。そもそも、犬は言語を理解しているのか?などと、どうでも良いことを考えながら、マグカップで薄いインスタントコーヒーを啜っていた。そうこうしていると、リンゴーンと玄関チャイムが鳴った。黒髪の、華奢でほそい鼻筋が通った女の子、クロエ。ベンジャミンのガールフレンドだ。入って来て早々、ベンとクロエの熱い抱擁とキスが始まる。文化が違うとはいえ、この光景にはなかなか慣れないものだ。ベンが僕の方を向き、クロエに紹介する。「クロエ、こちら晶馬だよ。晶馬、ガールフレンドのクロエ。話はしてたよね」僕は、どうもと手を差し出し、クロエと握手した。そのあと、年齢やら、今はどこに住んでいるのやらの話をした後、晶馬に対するクロエの興味は薄れていった。手持無沙汰になった僕は、ギターケースの上に寝そべっていたトーと遊び始めた。トーはごろんと上を向いておなかを見せた。撫でてやると嬉しそうに尻尾をバンバン床にぶつけている。ベンが来てトーに触ると、トーはさっと起きてベンの足元をうろうろし始めた。「ちょっと、トーの用を足してくるね」と言って、部屋を後にする。クロエを残して。いよいよ手持無沙汰になった僕は、ギターを手に取り、考えていたフレーズを反復した。「晶馬もギターを弾くんだね」「そうだよ。クロエは何か演奏する?」「ううん、私はベンの弾くギターを聴いているのが好きなの。それの専門」と言って、にんまりと笑う。「ねえ、続きを弾いてよ」弾きづらいなあと思いながら、僕はフレーズを展開させた。思いのほか、いい曲展開になった。用を足し終えたトーを連れてベンが戻ってきた。「ギター弾いてたんだね。外まで聞こえてたよ」「音量が大きかったかな。ごめんね」「大丈夫だよ。ここはすぐ後ろが森だからね。セッションしよう」ベンはギターを手に取った。僕が弾いたフレーズを一周聴いた後に、ベンが合う音を重ねてくる。どちらかと言えば、ベンのギターはリード向きだ。反対に僕はバッキングの方がいい。その点でも相性の良い友人だった。いよいよ飽きて来て、ロングトーンから指を離す。ベンと僕は顔を見合わせて、笑顔になる。クロエの拍手。突如始まったセッションでありながら、なかなか良かったと思う。トーは尻尾をパタパタ振っている。クロエはその後しばらく、ベンの才能がいかに素晴らしいものかをとうとうと語ってきかせた。クロエの力説を聞きつつ、表現者の傍には、肯定し続けてくれるパートナーがいることは幸せなことだなとか、ぼんやりと、そんなことを考えていた。実際、ベンの姿あれば近くに必ずクロエがいたものだ。ベンと、遊ぶようになって一月が過ぎた頃、クロエも僕の勤務先、日本人オーナーの店で働き始めた。彼女はよほどベンの側にいたいらしい。晶馬が見る限りでは、オンもオフもすべて一緒。クロエはいいとしてもベンは疲れたりしないのかしら、という疑問は胸に仕舞った。クロエが来たことで、結果的に店には温かい和やかな空気がプラスされたので店にとって良いことだった。そういうことで、ベンと遊ぶということは、クロエと遊ぶことでもあった。その二人には、目を掛けて可愛がっている女の子がいた。クロエの妹、オリビアだ。
オリビアについて思い出すエピソードがある。ベンジャミンの両親が出張で不在であるのを良いことに、ベンジャミン宅でホームパーティをしようと誘われた時のことだった。唯一、成人している僕が代表してパブに2L入りの箱入りワインを買いに行った。予想通り、店主は訝しげに僕の顔を見ている。外国では、アジア人は実際よりも若く見られることは知っていた。だから、この日は身分証明のためパスポートを持ち歩いていた。パブの店主は僕が差し出したパスポートをまじまじと見る。ベンたちは、店の反対側の陰で僕を待っていて、僕が無事にワインを入手してくるのを見ると小躍りするほどに喜んだ。一行は住宅街に入ってもなお、パーティに対する興奮を抑えられないでいた。静かな夜に若者の興奮が際立っていた。道途中のレンタルビデオショップで、The Gooniesを借り、家に向かった。家に着いた頃にはすでに陽が落ちていて、玄関は木の陰にあり一層暗がりになっていた。ベンは鍵穴を探すのに手間取ったが、いよいよドアが開くと、犬のトーが嬉しそうに寄ってくる。僕のことも覚えているようだった。キッチンにベンとクロエが立ち、調理を始めている。見るからに、クロエはいつも以上に張り切っていた。冷蔵庫に入っていたビール(VBが僕たちのお気に入りだった)を開け、乾杯をする。テレビではちょうど、NRL(ナショナルラグビーリーグ)の試合が始まっていて、僕が応援しているカンタベリーバンクスタウン・ブルドッグスが敵陣に勢いよく攻めこんでいるところだった。試合が終盤に入る頃には、ベンとクロエもソファに座り、いい感じにひっつきあっていた。NRLの試合が終わると、アップライトピアノを開き、ベンと二人でジャズの連弾をした。コードを決めての即興の演奏だった。そこにいるほぼ全員がアルコールに酔わされていた。まともな演奏ではない。ろれつの回らない英語で、みんなが早口に話すものだから、僕は話の内容がほとんど理解できなくなっていた。ネイティブならではの言い回しや冗談が多く、もう、なにも理解できていなかった。そこにいる誰もが笑っているのに自分だけ理解できていない。ふと、どうしようもない疎外感を感じた。一度そう思ってしまうと、その考えは離れなかった。外国の友達と遊ぶことは、楽しいことばかりではない。言語の壁は高く立ちはだかる。音楽やTVという共有できる媒体があれば、なんとか話についていけるものだ。しかし、今は状況が違っていた。時計はPM11時を回ろうとしている。こんなに長く、外国人と目的なく過ごしたのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。僕は、何度か煙草を吸うために屋外へ出ていたが、ベンの家の周りは街灯も少なく、真っ暗で、ベンの家から立ち去りたい、と思えども、慣れない道を歩いて帰ることに恐怖を感じた。帰るにも帰れず、仲間の話の輪にも入れない。アルコールが回っていることも手伝って、ベンの玄関先で僕は泣いてしまった。こんなことで、なぜ泣いているのか!自分を𠮟責しても状況は変わることはなかった。自分のメンタルのもろさに嘲笑しながらも、嗚咽は一向に止まらなかった。飲み過ぎたワインが嘔吐となって綺麗に刈り込まれた芝生に飛び散った。救いようがないのだった。口に酸っぱい不快感が広がり、涙に悶えた。ふと人の気配を感じ振り返ると、そこにいたのはクロエの妹、オリビアだった。大の大人がぼろぼろと泣いていることの恥ずかしさから、その場を立ち去ろうとするがオリビアは僕の前に立ち尽くした。仮にもオリビアは16歳である。高校生の女の子に本気の嗚咽を聞かれたと思うと恥ずかしさで僕はどうにかなりそうだった。なぜ、ここにオリビアがいる?みんないい気分でソファに居たはずでは?そうだった、オリビアだけは酒を飲むことのないようにみんなで約束を守ったのだった。彼女はきっと、この状況をとても奇異なものとして受け取っただろう。僕は再度この場面から逃げ出そうとしたが、オリビアは進路を譲ろうとしない。説明をせずに逃げ出すことは、余計な心配をかけてしまうだろう。しかし、うまく英語で話せるのか?自問した。僕は目頭を拭き、一つ呼吸を整え、笑顔をつくりオリビアの顔を見た。すごく心配そうな顔で僕を見ていた。僕は、ちょっと飲み過ぎてホームシックになったんだよ。心配かけてごめんね、と説明する。僕の英語は、合っているのだろうか?不安になり、えーと意味伝わった?と訊くと、オリビアは黙ってハグしてくれた。僕はこの状況を理解できなかった。いったい何が伝わって、何が伝わっていないのだろう?言語の影響力が届かない範囲に僕たちは居るのだろうか?訳がわからなかった。オリビアはクロエよりも7~8センチほど背が高い。たぶん170センチくらいだ。高めのヒールを履いてお洒落をしている今日の彼女は、僕とほとんど変わらない身長がある。彼女がとても優しくハグしてくれたから、僕もオリビアを抱きしめた。ああ、さっきの吐しゃ物がオリビアのきれいな髪に付いていないと良いのだけど、と考えていた。僕は、この出来事が、夢であってくれと願った。落ち着いたころに、リビングに戻った。みんなが心配していた。晶馬が翌朝、リビングのソファで目覚めると、すでにオリビアはいなかった。頭痛がするし、体がベタベタしていて気持ちが悪い。家に帰ろうと考えたが、ベンはいつまでも起きてきそうにない。ノックをしても応答がないベンの部屋に入ると、裸のまま眠っているクロエの背中が目に入った。慌ててドアを閉めて、その辺りに置いてあったキッチンペーパーに「昨日はありがとう。家に帰る」とメモを書き残した。(なぜこういうときに限って普通の紙が無いのだろう)昨日の出来事はすべて夢だった、という結末だったらよかったのだが、玄関先の芝生に乾いてへばりついた吐しゃ物が、事実を知らしめていた。僕は、オーナーの家に帰った。それからしばらくオリビアに会うことはなかった。
当時、ベンは僕が下宿しているオーナーの家にもしょっちゅう来ていた。勤務先が休日の昼下がり、買い物にも出かけず、家の裏口にあるテラスでひとり、ビールを飲んでいたときのことだ。携帯電話にベンから着信が入る。「やあ、何してるの」「オーナーの家の裏口でビールを飲んでる」「はは、いいね。近くにいるんだけど行ってもいいかな」「平日だよ、学校は?」「今週から休暇だよ」「そっか、そうだったね。了解」テラスからは芝生が広がっていて、時々飛び交う小鳥以外に何もいない。ぽかぽかと良い天気だった。そういえば、何人で来るのかを聞いていなかったな。まあいい。ビールは6本いりのパックごと冷やしておこう。しばらくすると、ベンが顔をのぞかせた。いつものようにクロエと一緒か、あるいはバイト仲間とやってくるのだろう。しかし、予想に反して、オリビアと一緒だった。ぎくりとする。オリビアと会うのは、ベン宅でのホームパーティ以来、つまり嘔吐の夜以来のことなのだった。冷やしていたビールをベンジャミンに渡し、オリビアには冷蔵庫の奥の方で見つけたレモネードを差し出した。なんだか気まずい。いったい何をしに来たのか腹の内を探ろうとしたが、ベンは唯はにかむだけで要件を話そうとしない。オリビアは控えめにしている。無責任に小鳥たちがピチチチ、と鳴いて飛んでいる。鳥のせいにしても仕方がない、いや、そもそも鳥は関係ない。「オリビア、ひさしぶりだね。えーっと、元気だった?」オリビアは、うん、と頷くばかりで目をそらした。僕の英語力が無いことも相まって、会話が続かない。苦しい時間が流れた。「今日はクロエは一緒じゃないんだね」どちらにともなく聞いてみる。「彼女は友達とペンリスに友達の応援に行ってるみたい、クリケットって言ってたかな。家に電話したら、オリビアが電話口に出て、暇だっていうから一緒に晶馬のところに来たんだよ」という。「迷惑だった?」オリビアは尋ねる。「そんなことはないよ。僕も暇にしてたところだったし」オリビアはうん、と頷く。しばらく、静かな時間が流れた。ベンはビールを飲み干しげっぷをした。オリビアは髪を左右で分けて三つ編みにして、さらに後ろで束ね直している。「もう、ベンってば」とオリビア。みんながくすっと笑う。「晶馬は、いつまでシドニーにいるの?」とベン。僕はちょうどこの頃、オーナーの下で働くようになってから三か月目に入っていた。ワーキングホリデービザでは同一の雇用主の下では三か月をこえて働くことは禁止されている。僕がここで働くようになる前からベンはアルバイトとしてきている。だから、彼は知っている。僕がそろそろここから移動するときだろうということを知っている。「そろそろだなあ、ここは居心地がよかったんだけどね。次の働き口を探さないといけない時期だ」そうだよね、とベンジャミン。穏やかないい天気だ。自分の発した言葉が、すうっと空気に溶け込んだ。彼らと会えたことはまた幸せなことだった。まだ早いけれど、数週間後には彼らにお別れを言わなくちゃいけない時が来るんだな、と実感したのはこの時が初めてだ。「なにか、クッキーでも取ってこようか」と言って僕は席を立った。戸棚を開けて、ゴソゴソとしていると、オーナーが帰宅してきた。「あ、オーナー、おかえりなさい」オーナーは、ただいま、と言いながらたくさんの荷物をどさっと置いた。「今日は疲れたよ。渋滞に巻き込まれてね」と言いながら笑う。「今日の晩は作らずにピザを注文しよう。ベンたちにも声を掛けて来てくれるか?」この提案を聞いて、ふたりは喜んだ。この家ではよくある光景で、みんなオーナーとこの家が好きだった。いつでも穏やかな優しさが満ちている、そういう家。ベンがクロエに電話をした。夕方には、オーナーの家に来れるという。ちいさなパーティの準備が進められた。オリビアは、食事の準備、ベンと僕は飲み物の買い出しを頼まれた。家から少し離れたところで、ベンが切り出した。「オリビアは、晶馬のことを気に入ってるんだよ。気が付かないか?」
僕はオリビアと初めて会った日のことを思い出してみた。それは、勤務先だったはずだ。定休日のこの日は、オーナーの計らいによって店を貸切りにした。ベンジャミンの誕生日パーティを開くためだ。当日、僕はベンの18歳の誕生日を祝うべく、調理も、配膳も、皿洗いもふくめて懸命に動き回っていた。望んで裏方に徹する日だった。そんな中でときどき、誰かからの視線を感じている自覚があった。客が店の人間を見る視線よりももっとつよい視線。意識してしまうくらいの視線だった。時折、欧米文化の感情表現は、日本人の僕にはややストレート気味に見えることがあるのだ。忙しく調理や配膳をしているなかで、ふと息をつき客席を見渡す。すると、僕の方を見ている女の子。追加オーダーの催促かと思い、ジェスチャーでオーダーですか?と尋ねると、そうではないと首を振る。オーダーならばウェイター係をしているベンの友人たちがいるから大丈夫だろうと思って気にも留めなかった。また忙しい時間が過ぎて、ふと息をつき客席を見渡すと、またさっきの女の子と目が合った。もしかして僕を見ている?いやまさか。意識してしまう自分が急に恥ずかしくなる。そのあとは、努めて目を合わさないようにした。あらかた調理と客席から引いてきた皿の片づけの目処がついたところで、僕もテーブルについた。さっきの女の子は、遠くの座席に座っていた。その女の子こそが、クロエの妹オリビアだった。後にクロエに紹介され、会釈をしたものの英語力に自信がない僕は彼女とほとんど話すことはなく、その場は流れていった。僕はそのことに安堵すらしていた。事実がどうだったか(つまりオリビアが僕に好意をもっていたのかどうか)は確かめていないものの、このころの僕には、どんなひとであれ他人からの好意的な態度を素直に受け入れることが出来ずに、どこかで恐れているところがあった。その傾向は、異性であれば尚更に表れた。斜に構えていたのだと、今は認める。僕は自分の意見や主張を出来る限りしなくてもよい方を選んできたのだ。その方が楽だし、無駄に傷つくことがないから、と信じていた。結果的に、その後、ベンジャミンの家で再会することになるまでの間、僕はオリビアに会うことはなかった。僕はこんな風に思っていた。この「今」は、通過するだけの場所である、と。冷淡にも思えるほど、自分には冷めた部分があった。けれども、いったい何を目指すのか?どこへ行きたいのか?と訊かれると、口ごもってしまうのである。ここではないどこかに、ただ憧れている。晶馬は自分自身でなにかを決めることを避けていた。ベンジャミンは、晶馬がそんな考えに囚われていることを知るはずもない。「オリビアはいい子だよ」と、ベンジャミン。晶馬は、なんと言うべきか迷ってしまった。
オリビアはなぜ僕なんかに興味を持っているのだろう。身近に日本人が珍しいから、だろうか。オリビアは僕がずっとシドニーにいるかどうか、を聞き出したいと思っている。僕は、ずっとシドニーに居るつもりはなかった。オーストラリアの東海岸を北上してケアンズに入り、ダーウィンから南下してエアーズロックに行く、というのがこの時点での目標である。どの場所にも長く滞在するわけではない。実際にそうであるように、通りすぎるだけの人物だ。僕にそれ以上の価値はないのだ。酒屋からの帰り道、ベンと二人でたくさんのビールを持って坂を下った。帰り道が上り坂でなかったことが幸いである。オーナーの家に到着すると、クロエも来ていて、オリビアと二人で食事の準備をしてくれている。いつ見ても仲の良い姉妹である。かくして、ピザ・パーティは開かれた。この日も、オリビアをのぞく全員が酒を飲み、各々ゆったりと好きに過ごしていた。最高の休日である。いよいよ暗くなってきて、オーナーがベンたち高校生に帰るように促した。オリビアがいなくなっていることに気が付いたのはクロエだった。「ねえ晶馬、オリビア知らない?」テラスでのんびりとビールを飲んでいた僕のところにやって来てそう尋ねる。「いや、知らないよ?ベンジャミンも知らないって言ってる?」ベンジャミンはずっと私と居たもの、という。なにか、理由があってどこかに行ったのだろうか。クロエに何も言わないで?オリビアは僕の知る限り、勝手にそんなことをするようなタイプではない。食事の時はそんな素振りは見せていなかったけれど、何かあったのだろうか。オリビアはまだ携帯電話を持っていない。クロエが家に電話を掛けたが、まだ帰っていないという。その結果を聞いて、いよいよこれはまずい話だとにわかに不安が走った。夜道が暗いので、クロエはベンジャミンが家まで送っていくことになった。酒を飲んで寝てしまっているオーナーは、そっとしておこうという話になる。余計な心配をかけるべきではない。僕はクロエたちとは違う道で、一駅先のクロエの家を目指すことにした。クロエたちは駅から電車に乗った。もし、家にクロエが帰ってきていたら、僕の携帯電話に連絡が入ることになっている。駅前から続く通りに沿って、歩いた。星がとてもよく見える、きれいな夜だった。多くの店が閉店準備をしており、店に入っているという可能性も低いだろうと考えた。すべての道を通ることは不可能だが、若い女の子が一人で行けるような場所は、そんなに多くないと踏んだ。携帯電話を見るが、着信履歴はない。もうすぐ、クロエの家の近所だ。シドニーには坂が多い。ときどき、木々の向こう側に、ちらちらと夜景が見えた。ふと、木々が開けた場所があり、人が入って行けるだけの獣道が踏み鳴らされている。僕はなんとなく、ピンときた。もしかすると、ここかもしれないと思ったのだ。
僕の足音に近づいて、振り返ったのは驚くべきことにオリビアだった。オリビアは天体観測が好きであることを知っていたから、或いは、と思ったが、まさか本当にいるとは思ってもみなかった。やあ、と言って近づくとオリビアは前を向いた。目を合わせるつもりはないらしい。足元は暗いけれども、眼下に広がる夜景と空に輝く星々の光が明るい印象を与えた。僕たちが君を探し回っているんだということは、わざわざ言わなくてもいいかもしれないと思った。僕は黙って、オリビアの隣に座った。「ここは星がよく見える場所なんだね」オリビアは空を見ながら満足そうにうなずく。「大学では、環境学を学びたいと思っているの。ほら、私は自然や動物が大好きだから」穏やかで優しいオリビアにぴったりの学問だと思った。オリビアの方を見ながら、うん、と相槌を打つ。彼女は話し続ける。「できるなら、シドニー大学に行きたいと思っているのよ。まあ、私の学力では難しいかもしれないけど」謙遜するような笑顔であったものの、彼女の顔が明るくなってきたことに安堵する。「楽しみだね。僕は大学に行っていないからうらやましいよ」僕は22歳だった。大抵の同級生は大学4年生で、就職活動をしているころだ。オリビアが僕を見た。初めて目があったかもしれない。「学びたいことはなかったの?」「そんなことはないよ。建築を学びたくて学校に行ったけど、続かなかった。挫折したわけだよ、忍耐力が無くてね」こんなふうになっちゃだめだよ、と僕は笑う。オリビアはまだ16歳だ。これからいくらでも可能性はある。「そっか。晶馬は別の道を選んだんだね」僕を見るオリビアの瞳は、僕ではなくどこか遠くを見ているように映った。「本当は、来月からアルバイトを始めようと思ってたの。あなたが働いているあのお店でね」これは知らなかった。オーナーからも何も聞いていない。「せっかくの大学生活だもの。一人暮らしをしたいじゃない?だから、少しずつでもお金を貯めようと思ってたのよ」来月か、と僕は相槌を打つ。「うん、頑張りなよ。いいことだよ」「晶馬は本当に来月で終わりなの?つまり、いなくなっちゃくってこと?」オリビアは見上げるような目で僕を見た。胸がぎゅっとなる。「寂しくなるよね。ベンジャミンたちとはたくさん遊んだし、僕もつらいよ」でも仕方のないことなんだよね、と務めて明るく振る舞った。オリビアは、下を向いていた。この暗闇の中ではどんな表情をしているのか僕にはわからなかった。さっきからポケットの中で携帯電話が振動している。「さあ、家に帰ろうか。送るよ」というと、こどものような仕草でいやいやをする。頭をポンと撫でた。大丈夫だよ、と発した言葉は、無責任であり、無意味な言葉だったが他に言うべき言葉は見つからなかった。オリビアが胸に滑り込んできて、しくしく泣いた。僕はただ、大丈夫大丈夫、と言いながら彼女の頭を撫で続けた。ベンジャミンの家で嘔吐し泣いていた僕をオリビアは抱きしめてくれた。これは恋愛ではない。けれども、何かしてあげたいと思う気持ちに嘘はない。僕は何も言わずに抱きしめつづけた。友情をもって。
休み明けの勤務が始まり晶馬はいつもの日常に戻った。週末にはまだ早い木曜日、店の厨房でディナー営業の開店準備をしていると、ひょこっとエプロン姿のオリビアが現れた。「晶馬、今日からよろしくね」僕はとても驚いた。オリビアは来月から働くんじゃなかったっけ?オーナーがやってきて、そういうことだからよろしく、と僕の背中をぽんと叩く。何がそういうことなのか。しばらくすると、出勤してきたベンジャミンがオリビアと話をしている様子を見ていると、どうやら僕だけが知らなかったようだ。その日から、オリビアは店に出勤するようになった。晶馬とオリビアとの間にある不思議な友情は存在したままだったが、仕事を挟むことで、話す機会は格段に増えた。意図せずふたりきりになることもある。たとえば食卓に使うナプキンやクロスなどの備品がしまってある場所を教える時だったり、空になったワイン瓶を店の後ろに一緒に運んだりする時だ。そんな時に、オリビアは勉強の進み具合や将来の進路のことを話した。高校生である彼ら(オリビアをはじめとしてベンやクロエも)は、店の営業時間であっても勤務を早くを切り上げて帰ることになっていた。大体、17時~21時が彼らの勤務時間だった。平日でも大抵二人か三人のホール係が入っていたから、いつもオリビアは、ベンやクロエ、そのほかの高校生と一緒に帰ることになる。しかし、この日は違った。ベンが風邪をひいて急遽欠勤となって、オリビア一人が出勤をした日だった。幸い平日の中日だったから、僕をはじめとする厨房係もホールをサポートしながら、店は難なく閉店時刻を迎えることができた。20時45分過ぎ。閉店は22時だが、最後に食事をサーブしたお客様も食べ終えているようで、そろそろ帰り支度の雰囲気があった。今夜は早めに店を閉めようか、とオーナーが言う。僕が皿洗いをしていると「オリビアを駅まで送ってやってくれるか?年若い女の子を一人で歩かせるわけには行かんだろう。(まだ洗えていない皿を見て)残りは私がやっておくから。晶馬も上がっていいよ」オーナーにそう言われると、そうする他ないような状況になった。わかりました、といって僕は腰エプロンを外した。こっちを見ていたオリビアに、着替えてくるから店先で待ってて。と伝える。洗顔し、調理の汚れを落とす。石鹸でしっかり油汚れを落とした。勤務中に着ていたシャツを脱いでナップサックに入れ、持ってきていたTシャツに着替える。店先に戻り、「お待たせ」というと、オリビアは照れたような表情で「ううん」と言った。その表情をみて僕は、オリビアとは友達なんだから、と気を引き締めた。歩きながら、夜の街を誰かと歩くのは久しぶりだな、と思っていた。暗く狭い歩道を歩いていると、手が触れそうになった。何も話さないまま、あっという間に駅に着き改札の前に立ったオリビアは、こっちを振り返った。「バイバイ」とはにかみながら手を振った。その表情をみて僕は、オリビアとは友達なんだぞ、ともう一度、心で唱えた。
店の定休日、朝から支度をして僕のためにフェアウェルパーティが始まった。ANZ銀行での現金紛失事件(一瞬で1,500ドルが消失した日※episode2)があり、事情を酌んだオーナーの配慮により僕は数週間の間、勤務期間を伸ばしてもらっていた。手荷物を整理し、まだ使えるものはセカンドハンドに売却し、なんとか所持金をかき集めていた。そのおかげで、この店に滞在する期間が延びていた。ベンやクロエ、そしてオリビアは銀行での出来事を一緒に悔しがってくれたが、まだしばらく店で働かせてもらうと伝えると素直に喜んでもくれた。もはや、オリビアとは友人になっていた。少し年上のお兄さんという立場で、オリビアの傍に居ることが増えていた。今日ここに集まってくれた人々は全員が僕のlとを知っている人々だ。見知らぬ国での初めての友人、知人だ。親身になってくれる日本人のオーナー、いつも一緒に過ごしてくれるベン、何者でもない僕をまっさらな目で見つめてくれたオリビア。日本にいるときは、人と比べてばかりだった。たくさんのコンプレックスで固まっていた僕を「そんなの過去のことだろう」と、気にもせずに、現在の僕だけを見てくれた人たちがここに居る。僕はここに留まり続けたい、と思ってしまう。しかし、それが無理なことも、また、それをすべきではないこともわかっている。けれども、そう思えることが胸をじんわりと温めた。一言で言うなら、幸せだと思った。「晶馬、ホラなんかしゃべってよ」パーティが終わろうとしている。僕は用意をしていた英文をポケットから取り出した。「えーっと、、」と話そうとすると、緊張で手が震えた。話すときは、みんなの顔をしっかり見ようとした。僕の拙い英語が、みんなに伝わるかな。きちんと届くだろうか。オリビアは僕を一生懸命に見つめている(フェアウェルパーティで話すためのカンペ。英文がおかしくないか、事前に見てもらっていたのだ)。ベンとクロエは、肩をくっつけて僕を見ている。見知らぬ街、話せないためのコミュニケーションの怖さも感じた。最後には大金を失うというトラブルもあったけれど、ふりかえれば嬉しいことの方が断然多かった。それはここに居るあなたたちのお陰だったのだと、僕は伝えたかった。一言一言を口にした。伝わったのかどうか自信はない。でも、嬉しそうにして聞いているみんなを見ていると、伝わったのかもしれないと思えるのだ。
話を今に戻そう。オリビア達のいるシドニーを発ち、ゴールドコースト、ブリスベン、ヌーサ、バンダバーグ、ブリスベン郊外と旅をした僕は、今またシドニーにいた。チャイナタウンの一角にある、フレデリック・チャンのレンタルビデオ店の2階に居を構えている。日銭を稼ぐための仕事はしていない。生活をするに十分な資金があるからだ。小籠包店のキュートな売り子に挨拶をしたいために紀伊國屋シドニー店へ行き、吟味した結果「使える!指差し中国語会話」を購入した。シドニーには、沢山の人がいる。もちろん日本人も多くいるが、時折耳に入ってくる母国語に振り向くことは無くなっていた。全ての人には、行き先があり、何かのタスクをこなすために動いているのだろうが、僕にはこれといって目的はなかった。だから、僕は、よくハイドパークで時間を過ごした。小道を歩き、いくつかのベンチが見える。たいてい人が座っているが時折空いた場所を見つけることができる。しばらく歩くと空いているベンチを見つけた。リカーショップで買った瓶のVBを開けて、紀伊國屋の包みを剥がした。さっき購入した中国語会話の本を眺め、疲れた背中をベンチに持たせかける。公園から見える雲にはあの日見た飛行機雲によく似たそれがあり、今日もまた誰かがこの国から離れたことに思いを馳せた。僕はソフィのことを思い出す。もはや、過ぎ去った過去であり、今ここに無いなら、それは既に無かったことでもあるのだけれど、それでも思い出した。僕は唇を歯で噛んでみた。存在しない物質。立証できない過去。ただの記憶。しかし、僕の唇には生々しいほどのソフィを思い起こさせた。ここに居なくても思い出せるならば、もし彼女がここに居たならばどれだけの安らぎを得られるだろう。けれど、僕は彼女にあれほどの安らぎを差し出せるだろうか。わからない。僕は中国語会話の本を閉じた。どうにもならないことを考えても自分を落ち込ませるだけだった。過ぎ去った過去は慰めにしかならない。僕は家路を辿った。電子レンジで温め直した小籠包は出来立てのおいしさとはほど遠いものがあった。チャンに差し入れをするには気がひけ、結局、その晩ジェイコブとふたりで三人前の小籠包を食した。帰りに6缶パックのビールを買ってきてくれるところを見ると、ジェイコブの路上演奏はそれなりにうまく行っているらしい。時々チャンは店を留守にすることがあった。そのとき、晶馬に店番をさせた。報酬は一回40ドル。悪くない報酬だった。チャンが不在にする時間は長くても半日だった。店番のあいだ、僕は安っぽい椅子に座り挿しっぱなしのVHSを再生して古いフランス映画を見た。そんな折、配達を頼まれた。紙袋に入っていたVHSは、歴史ものの中国映画だ。渡された地図の通りに歩いていく。チャイナタウンのメイン通りから、(床屋のネオンサインが目印だった)細い脇道に入り、突き当りを右に曲がる。配管の上をネズミが走る。チャイナタウンの生活排水が全てここに染み出しているかのような小道を進む。時々ぶつかるT字路を野良猫が通りすぎていく。幾度か路地を曲がると雑草が生い茂った空き地に出る。地図に示された場所である。開きっぱなしの門をくぐると、ひっそりと家が建っている。ここは都心の中に存在しているぽっかりと開いた空間であり、チャイナタウンの喧騒も届かない。押しチャイムを鳴らしてみるが手ごたえはない。仕方なく玄関から声をかける。引き戸を少しだけ開けて、エクスキューズミー…と声をかける。返事なし。晶馬は軽く咳ばらいをし、大きな声で声をかける。すると、家の奥の方から、おおーい、と返事が返ってきた。しばらく待つと廊下のさきにある部屋から老人が顔を出す。老人は晶馬を手招きする。「カムイン(入っておいで)」僕は躊躇したものの、家に上がる。玄関から見える内壁にはそこにあるのが当然のようにシミがあり、経年のしるしを物語っていた。しかし室内を貫く廊下には、中庭から入る太陽の光で明るく、そして思いのほか、整頓された清潔な印象だった。招かれた部屋に入ると、ホコリと古い紙の匂いがした。その老人は、口数の少ない穏やかな人だった。部屋に上げられた僕は、老人の側にあった小さな急須から入れた茶を振る舞われた。白い陶器の湯呑み。濃い湯気が部屋に差し込む光に照らされて揺らめいている。茶は、薄く、苦かった。「あの、これミスター・チャンからです」と僕は言い、預かっていたVHSを手渡す。ありがとう、という仕草をして老人はにっこりとした。老人の瞳は深い位置にあった。それは抽象的な意味でもあり、実際の見た目でもある。深く刻まれた顔の皺。瞳はその奥の方に、小さく静かに位置し、僕を見つめている。同じく沢山の皺が刻まれた頬にはほとんど肉はなく、優しく微笑みを湛えている。この人は、ほとんど英語を話さないのだ。次第に僕は理解した。湯呑みが空になると、新しく湯を入れ、注いでくれる。茶はますます薄く、苦味だけが際立つ。部屋の壁際にはたくさんの本が平積みされていた。背表紙には漢字が並んでいる。すべて中国の本ではないか、と想像した。独居老人、という言葉が浮かんだ。この家には一人で住んでいるのだろうか。まあいいか。僕は配達を頼まれてきただけだ。二杯目の茶を飲み終わり、立ち去るタイミングを探していた。本の方を見ていた僕に気がついた老人は、ごそごそと一冊の本を手渡した。それは大判の写真集だった。山の風景が表紙の「黄山(Yellow Mountain)」と書いてある。峡谷にも靄(もや)が掛かる風景は美しく、さまざまな色に溢れていた。老人を見ると微笑みながら、めくってみろという仕草をする。ぱらぱらとページをめくった。高山植物の花の写真や、飛来石とある巨石の写真、他にも沢山の峡谷の写真が収録されていた。僕は見入った。写真集というものはこれまであまり見たことがなかったな、と思った。最後のページをめくり終え老人を見ると、満足そうに僕を見ていた。サンキュー、といいながら手渡そうとすると、本を持っていけという仕草をする。僕は、これを?と本を指差す。老人は頷く。僕は、本を借りて帰ることにしたのだ。
借りた本を抱えて来た道を戻る。老人の家をでるときにすでに雲行きは怪しかった。みるみるうちに空は暗くなり、バケツをひっくり返したように雨が降り出た。本を服の中に抱え込み路地裏を走った。期せずして、チャンの店の前でジェイコブと鉢合わせた。「ひどい雨だな。今帰りか?」「ああ、今日はだめだ。誰も出歩いちゃいねえよ。サーキュラーキーのあたりは早いうちから土砂降りだったぜ」店に入りチャンに配達完了の報告をする。「ミン爺さんは元気だったか?」ミン爺さん?「ミンさんと言うのですか。名前は聞きそびれてました。お元気そうでしたよ」そうか、ありがとう。といってチャンは10ドル札を手渡す。「また、配達を頼むよ」そう言ってチャンは接客に戻った。僕は部屋で黄山の写真集を眺めることで夕方まで過ごした。桃源郷というものが実在するのならばこういう場所なのかもしれない。桃源郷について調べると、こうある。桃源郷への再訪は不可能であり、また庶民の世俗的な目的にせよ、賢者の高尚な目的にせよ、目的を持って追求したのでは到達できない場所とされる探し求めれば見つかることはない、と言われている。探し求めれば理想郷に行けるという考え方を否定している。すでにここに在るものであり、心の外に探し求めてもそれは見つかることはない、という。あの爺さんは仙人なのか。いや、ただの爺さんだろう。窓から眩しいほどの陽光がさした。いつの間にか雨が上がり、チャイナタウンの路上には人々の活気が戻っていた。
ミン爺さんはフレデリック・チャンの実父だった、ということを知ったのは、ミン爺さんのところへ三度目の訪問をしたときだった。ミン爺さんから「フレッドは元気にしていますか」とあったのだ。「ええ、元気にされていますよ。あの、ミスター・チャンとはどのようなお知り合いなのです?」「フレッドは私の一人息子です。しばらく会っていませんでした。ひと月ほど前かな。久しぶりに電話があったのです」そういうことだったのか。ミン爺さんは、話す心積もりがあるらしい。「それで?もしよかったら教えてください」ミン爺さんは、茶をすすりながら続けた。「フレッドがあの場所でビデオ店をはじめるというので、私は猛反対しました。いかがわしいビデオでも置くんじゃないだろうか。それでもチャンの家系か、と」ミン爺さんは話を続けた。「でも、実際に彼が開いたのはそんな店ではなかった。あの店のラインナップをご覧になりましたか?多くがヨーロッパの古い映画であり、それらを選んでいるのは彼の審美眼です。中国の古典映画やドキュメンタリーもあるようですね。この間あなたにもってきていただいたVHSはまさにそうだった。すべて私の杞憂だったわけです」僕はよく話すミン爺さんを珍しいものを見るように見ていた。穏やかな、無口なミン爺さんからは想像もできないほど息子には厳しく接したようだった。「いいお店ですよ。僕もたまに店番をさせてもらってますが、常連客はみなフレッドに助言を求めています。次に何を観るべきか?と」ミン爺さんは目を丸くして、それからにっこり笑った。「それはいい。フレッドにそんな一面があったなんて思わなかった。いつまでも私の知っている、子供のままではないのですね」そういってミン爺さんは茶をすすった。
フレデリックのことを話すミン爺さんを見ながら、僕は僕の父親のことを思い出した。父は僕が外国に行くことをすごく喜んだ。日本を発つ前、まるで自分が旅へ行くかのようにうれしそうにしていた。父親になるということはどういうことか、僕は知らない。ひとり息子を想う親の気持ちを、この耳で直接聞いたことはない。放任主義なのだと信じ込んでいたが、本当は息子との距離感に困っていたのかもしれない。家に帰ると、僕の父親は、いつも何かしらの本を読んでいた。父のシングルソファの後ろには、たくさんの本が平積みされていた。多くを話さない人。そういうイメージ。そんな父が、ひとりでオーストラリアに訪ね来てくれたことがある。父にとっては初めて見る土地。一緒にサーキュラー・キーから遊覧船に乗って動物園へ行った。ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館へも行った(父は現代美術よりも歴史的な美術を好んだ)僕がほんの小さな時に、動物園で撮った写真がある。父の背中におんぶされて、みっともなくよだれを垂らしている。父は、人一倍感受性が強い人だった。とにかく考えてからモノを話す人だった。どことなく、威厳がないように見える人だった。父は、父親を知らない。だから、どう振る舞うべきなのか、悩んだはずだ。父親は、父親らしく。そんな思い込みを持っていたのかもしれない。そんなのは幻想なんだぜ。天地がひっくり返っても、あなたは僕の唯一の父親なんだから。滞在中、僕と父はいろんなところへ行った。ロイヤル植物園に行き、ロックスのレストランで夕食を取り、オーストラリアン・ビールを片手にファーストフリートパークからオペラハウスを眺めた。一週間足らずの滞在だったが思い出は濃い。シドニー国際空港で父を見送る時、僕は父親を見送ることはもしかして初めてかもしれない、と考えた。家族を外国で出迎え、外国で見送ることに、僕は一人深く心を動かされたのだ。この感銘を受けるには、ここではない何処であってもいけなかった。時として旅は、こんな風に普段の枠組みを外し、真っ新な眼を与えてくれることがある。
これといった事件もなく、チャイナタウンでの日々は穏やかに過ぎた。季節がうつろい秋の気配が街を通り過ぎる。帰国の時はもうすぐそこまで来ていることを意識した。僕はこの日々の中で何を得たのだろうか。何かを得たいと、外国に行けば劇的に自分が変わるんじゃないかと期待した。結論を出すならば、僕は何も変わっちゃいないだろう。それは、良くも悪くもそうなのであり、前にも後ろにも進んでいないのだろう。今の僕には、そういう抽象的な概念はもう要らない。そんな風に思えるようになったこと、それこそが唯一の収穫かもしれない。
斎藤晶馬は国際線の飛行機から無機質な風景を眺めていた。「皆さま、今日もJETSTAR880便、関西国際空港行をご利用くださいましてありがとうございます。この便の機長はジョン・ブラウン、私は客室を担当いたしますリンダ・ミラーでございます。まもなく出発いたします。シートベルトを腰の低い位置でしっかりとお締めください。関西国際空港までの飛行時間は13時間20分を予定しております。ご利用の際は、お気軽に乗務員に声をおかけください。それでは、ごゆっくりおくつろぎください。」機内アナウンスがながれ、機体は滑走路へと入っていく。速度を上げるにつれ、窓から見えるシドニー国際空港の建物が実態を保てなくなっていく。すべては線状になる。斎藤晶馬はカメラのシャッターを切った。ここに写ることのない人々と、すべてに愛を。
2022 Memories in Australia. (c)Naohiro Kosa
あとがき (Memories in Australia)
英国の詩人バイロンが言った「事実は小説より奇なり」。これは事実だろうか。他人の物語であれば大きく頷き、まさにそうだと感じる。伝記やビジネス書などの本を読み、人生には想像もできないくらいの出来事があるのだなと感嘆する。しかし、こと自分の身に起きたことは、主観で見ているからこそ奇想天外であるとはどうにも思えないのだ。とはいえ、僕は、僕の物語を生きている。誰もがそうだろう。あなたは、あなただけの物語を生きている。しかし、物語の進行中であるとき、その体験は「物語」として映らないはずだ。なぜなら、その現象が非常にリアルだからだ。感情が揺れ、涙が出て、立ち尽くすことも有る。うれしくて、顔がほころび、誰かが取ってくれた写真を見て初めて、「こんな顔をしてたのか」と気が付くことも有る。気が付くためには、一定の時間が要る。事実が「物語」として成り立つために必要な時間というものがある。自らの記憶を客観視できるようになるまでは、それらは都合のいい部分の記憶しか残っていない。物事をありのまんまに受け入れるまでの反応速度が重要である。僕は音楽を作るが、いつでも作品に物語性を求めている。物語はフィクションである。しかし、そこには純度の高い「リアル」がないと感動できない。僕は純粋に自分が感動するものを作りたい。ただ只、自分のために作品を作っている。自分が感動しないものは、他人の感動も誘わない。これは僕にとって、ひとつの事実となっている。僕はこの小説「MIA」を書きその事実に気が付いた。