斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』は資本主義システムの痛烈な批判だ。グローバルサウスからの労働力の搾取と自然資源の収奪。生活の質と環境負荷の相関関係といった資本主義の際限なき利潤主義に起因する事実を見つめながら、環境危機の解決策を晩期マルクスの思想から導き出す。もっと豊かにもっと新しいものを。それを少しでも安く少し手も早く手にいれることが価値のように思えてしまうが、なんてわがままだったんだろうと感じます。知らないことは怖いことだ。
環境からの搾取とグローバルサウスの犠牲
確かに地球は膨大な資源を持っている。搾取しているという意識を持つことがないくらい、大きい。けれど、マテリアル・フットプリント(消費された天然資源を示す指標)のグラフを見てもわかるように、地球への負荷は目に見える形になっている。原因があり結果がある。ゲーム・マインクラフトの世界では、マイニングをし続けても資源が枯渇することはない。しかし現実はマインクラフトとは違う。人の搾取するスピードや力は、地球の豊かさを遥かに超えてしまっている。
日本に住んでいるとグローバルサウスの実態は肌感覚では理解できない。しかし環境は悪くなる一方で労働にも無理が出る。よくないことをしているとわかってはいるが家族を食べさせるためだ、と思って働いている父親を想像すると胸が締め付けられる。これまでは、見えないから見ようとしていなかっただけで、見えてしまったらショッキングな現実が実際にあると本書を読んだ今なら想像できる。本当にこれでいいのか。よいはずがない。僕自身も本書に登場する原料の一部に仕事で関わっていた。ショックだった。その原料を扱うことで利益をあげて、給与を受け取っていることに後ろ暗い気持ちを感じるようになった。もう、知ってしまったからには、知る前には戻ることができない。僕にもできる行動はなんだろうか。
加速主義から脱成長へ
本書では、ではどうすればいいのか?という問いに対して方向性を見せてくれていて、その点に希望を感じる。
資本主義に対抗する形での「脱成長論」が本書の主張だ。晩年のマルクスの思想からのヒントを得て、第4章は展開してくいく。第5章では、加速主義という現実逃避について書かれており、技術というイデオロギーこそが、現代社会に蔓延する想像力の貧困の一因となっている、と斎藤氏は指摘する。
だが、エコ近代主義のジオエンジニアリングやNETといった一見すると華々しく見える技術が約束するのは、私たちが今までどおり化石燃料を燃やす生活を続ける未来である。こうした夢の技術の華々しさは、まさにその今までどおり(status quo)の継続こそが不合理だという真の問題を隠蔽してしまう。ここでは、技術自体が現存システムの不合理さを隠すイデオロギーになっているのである。
P229 第五章 加速主義という現実逃避 _斎藤幸平著 人新生の「資本論」より
「価値」と「使用価値」のちがい
第六章で希少性が資本を産み、生きていく上で万人に必要なものでさえ商品にしてしまっていると指摘する。潤沢なコミュニズムを目指す上で重要な概念が、コモンズ(commons)だ。水はコモンズである。水は潤沢に存在していることが望ましいし、必要でもある。そしてそのような状態では、水は無償である。万人にとっての「使用価値」があるものを「公の富」としてあつかうことがコモンズの大切にするところである。しかし、ブランド化によって作為的に作られた「相対的希少価値」によって資本主義は成り立っている。そして私たちが生きている社会も資本主義である。果たして、この悪循環から逃れる道はないのだろうか。脱成長コミュニズムによって潤沢な社会の創造を目指すことだと斉藤氏は説く。使用価値経済への転換、労働時間の短縮、画一的な分業の廃止、生産過程の民主化、エッセンシャル・ワークの重視によって柱を立てる。それが目指す大きな跳躍の着地点は、相互扶助と自治に基づいた脱成長コミュニズムということになる。
「脱成長コミュニズム」を理論化した本書、英訳され2024年1月に「SLOW DOWN」と言うタイトルで世界に流通している。個々人のちいさな選択が積み重なって、「3.5%」を超え続ければ、将来の地球環境はましになるかもしれません。先の世代に任せることではない。何ができるか、自分なりに考えて行動しようと思います。