コクヨの『WORKSIGHT』29号を読んでいて、ひとつの問いが頭から離れずにいます。それは、「なぜ残すのか」ということ。何を残すか、ではなく、なぜ。一言ちがいの大ちがい。ここに、この号の批評性があるのだと思いました。残すべき対象を先に決めてしまうと、たいてい一番大事なものがこぼれ落ちていきます。僕が長いあいだ、聴覚の分野でやろうとしてきたことも、たぶんこの問いの周りを回っていたのではないかと思います。
フィールドレコーディングで、すくい上げていくのは、その場所の音であると同時に、もう戻らない時間の手触りのほうなのかもしれません。また、作曲する中で叙情的なメロディを手放したくないのは、ぼんやりとした風景でも残してみたいから。僕がするのは言葉のない音楽だから、何を伝えたいのか?はそれを聴く人にゆだねられる。まだ立ち上がっていない風景を残すために、メロディを渡す。そんなイメージで音を選んでいます。
なぜ残すのか?と言えば、消してしまいたくないからだと思います。僕はそれを「捏造された過去」と呼んできました。実際には存在しなかったかもしれない美しさを、音で召喚すること。ノスタルジーというより、あり得たかもしれない世界への哀惜に近いのかもしれません。
たとえば、こんな記憶があります。
〔静かな早朝、京都左京区の法然院で、まだ土の中にいる蛙の声を採取しました。残したかったのは、目に見えない生命力そのものです—— 録音〕
同じことは、文学の世界にも通じます。僕がカズオ・イシグロやユーリ・ツェー、パスカル・メルシエに惹かれるのも、たぶん同じ理由です。喪失や制約が先にあって、その縁でこそ人間の美しさが際立つからです。『わたしを離さないで』のキャシーたちが美しいのは、彼女たちに未来がないからだと思っています。最近になって、こういうことは音楽だけの話ではないと気づきました。地方都市に住んでいる僕が、文化や芸術の営みを眺めていると、失われるのはいつも作品よりも先に「過程」のほうなのです。誰がなぜそれを始め、どんな問いを抱えて続けてきたのか。その記録が残らないままに、文化や芸術の担い手が食べていけなくなった瞬間、活動そのものが静かに途切れていきます。
完成された作品は、ときどき生き延びることがあります。けれどその手前にあった「なぜ」は、ほとんど誰にも拾われないまま消えていきます。
そして僕自身について、最も近いところにも同じ消失がありました。それは僕自身の制作活動です。朝のわずかな時間を、じっさいに手を動かす音楽制作のために空けているはずなのに、その時間はいつのまにか「考えること」に溶けていってしまいます。
家族、家族を支える足場であるはずの仕事、その仕事のあり方を整えるための思考が、足場の上で鳴るはずだった音を侵食している。過程を守ろうとする企てが、過程そのものを食い潰す。なんてたちの悪い皮肉なんだろうと思ってしまいます。
だから、残すべきは完成された作品だけではないのだと思うようになりました。その手前にある「なぜ」のほうもとても大事。組織にとってそれは、「結局、自分たちは何をやっているのか」を問い直し続けることにつながるし、個人にとってそれは、もっと素朴な行動になります。
僕の場合、朝、コンピュータを開く前に、まず楽器に触れること。分析する脳より先に、つくる脳を起こしておくこと。
なぜ残すのか。考えてみたけど、たぶん答えは、残すという行為そのものの中にしかないんじゃないか。そんな風にも思いました。
Text: 小佐直寛

