Ⅲ
宿の周辺には高い建物がなく春先の爽やかな風が抜けた。宿の外階段は居心地の良い場所だった。スンと別れた後、晶馬は一人で表の商店へ行ってみることにした。外階段から中庭を抜け、ぐるりと回ってバーボン・ストリートへ出る。宿泊している宿、CityCentreBackpackersの一階部分に入っている小さな商店の店先には”Hungry Tum(ハングリー・タム)”というネオンサインが点いている。店内を見渡す。入店してすぐ右手には、レジカウンター。その後ろにはホットスナックの写真入りメニューが掲げられている。ポテトやバーガーが中心のようだ。食品棚にはマカロニ入りの即席スープやポテトチップスなど、日持ちするものが少量ずつ陳列されている。冷蔵棚には、コーラやスポーツドリンクといった飲料がある。陳列されている商品は全体に隙間の多い、殺風景な印象をもたらしていた。それは客商売に対する開き直りともとれる雰囲気を醸し出しており、それでもこの店が成り立っていることを考えると、やはり二階の宿泊客が買いに来ていると考えるのが普通だろう。これからのファーム生活を想像した。僕のようなバックパッカー達にあてがわれる農作業の内容というものが、複雑で経験が必要な内容であるはずがない。単調で、ともすれば楽しみを見出すことが難しい内容なのではないだろうかと、晶馬は要らぬ妄想をした。さておき、あまりに店内の物色を続けていると店主に怪しまれかねない。晶馬は手持ちのお金で、ミネラルウォーターと25本入りのボックスタイプの煙草を買う。ついに財布の中身は20ドルを切ってしまった。代金を払いながら、店内のレジ横にATMがあることを確認した。ATMに国内銀行のキャッシュカードを入れる。しばらく入金される予定のない預金残高を確認するものの表示された数字は10ドルを切っていた。僕は店から出るときにもう一度店内を振り返った。このハングリー・タムには、しばらく世話になることだろう。明日から新しい仕事を始める。農作業など、これまでに一切の経験はない。そのことが不安ではないと言えば嘘になるが、未来の出来事に対応するのは未来の自分であり今の僕ではない。起きてもいないことを心配するのは杞憂である。なにが起きても受け入れ、対処していこう晶馬はそんな風に考えていた。シティ・センター・バックパッカーズへ戻ると、ロビーには人だかりが出来ていた。ひと際背の高い(そしておしりの大きい)オーナーを中心にして、円形状に人間が集まっている。ざっと数えて20人、いや30人以上はいるだろうか。若者の熱気が、汗と体臭が入り交じり、そこに香水の甘い匂いと混じりあって、晶馬は人酔いをしそうになる。まるで、お祭りのような騒ぎに圧倒されつつ晶馬はその輪に加わった。オーナーが腕時計を見て、16時を過ぎたとき、「みんないいか?これから、明日の仕事を紹介するからよく聞けよ。仕事が欲しい奴はしっかり発言してくれ」僕を含めてワーカーたちはにわかに静まり返った。「〇〇農場で野菜のピッキングをする者はいるか」にわかに「私がやる!」「俺も!」とあちらこちらで挙手が始まる。事態がまだ飲み込めていない晶馬は、その雰囲気に圧倒され何もできずにいた。仕事をもらう、とはこういうことか。ヌーサ・ヘッズで出会ったトウジに言われたことをおもいだしていた。「なんにせよ、仕事が欲しいなら、周りに負けないようにね」彼がそう言っていた意味がようやくわかった。挙手してアピールしているワーカーの中から、オーナーが指をさして、指名している。おまえとお前、それから、そこの君。オーナーが「Next is..」と手元の紙を見ている。告知される仕事の内容がどの様なものか分からないところもあるにせよ、いまは仕事の内容を選んでいる余裕はない。手持ちが20ドルを切りそうなのだ。何とかして現金を手に入れないと、また野宿をする羽目になる。オーナーが次の仕事を発表した。各所で挙手とアピールが始まる。晶馬は挙手したが、ここでも指名をしてもらえなかった。仕事を得た者は、詳細を聞くために別の場所に集まっている。そのため、だんだんと人だかりは小さくなっていく。不安と緊張感で喉がカラカラになってきた。あと、どのくらい仕事は残っているのか?それを知らされていないから尚更に不安だ。オーナーが次の仕事内容を告知する。何と言ったか聞くこともなく、僕は猛烈にアピールする。オーナーと目が合う。そして、ようやく指名を受けた。あてがわれた仕事内容は農地整理というものだった。詳しいことは現地で聞けと言われ、明日の朝5時にロビーに集合することになった。そこで晶馬が所属するグループは解散した。周りを見渡すと、他のワーカーたちはすでに思い思いに過ごしており、その雰囲気は学校かあるいは修学旅行の宿泊先のようだった。晶馬は、ようやく居場所が定まったような気がしていた。日本にいた時は仕事や学校に行かなくてはいけないことに対して、憂鬱になることもあった。明確な明日の予定を持っていることは、自分自身を束縛されることだと、そう思っていた。たしかにそうだろう。けれど、今の彼にとっては、行く先がある、ということがただ嬉しかった。その明日はきっと誰かと過ごす一日になる。彼は腹の方からふつふつと湧いてくる安堵感を噛みしめていた。ベッドと、風呂と、そして同じ環境のなかで労働を共にする仲間の存在。ただそれだけのことなのに、彼の目に映る世界はすこしだけ優しく変わったようだった。不思議なものだ。シティ・センター・バックパッカーでの初めての夜は、静かなものだった。21時には宿は暗闇に満たされた。それはルームメイトによって自主的に消灯されたもので、同室の全員がベッドで眠りにつこうとしている。ときおり、携帯電話のディスプレイが放つ仄かな光が見えるものの、誰も話しをするふうでもなく、外から聞こえる虫の音を除いては音はなく、静かな時間が流れている。晶馬はバックパックから、手元灯を探し出して、今日の出来事をノートに綴った。「バックパッカーに宿を見つける/明日の仕事をもらった/ひさしぶりのベッド」と書きつける。早い時間に起きられるように、アラームは携帯電話と手元時計の両方に設定をする。
翌朝、目覚まし時計の音で目を覚ました。この卓上時計はシドニーの3ドルショップで買った安物だが、びっくりするくらい音量は大きい。晶馬は慌ててアラームを止めた。時計の針は4時31分を指している。薄暗い朝の気配のなかで部屋を見渡すと、すでに向かいのベッドには人がいないようだった。洗面道具をもって慌ててベッドを降りた。洗面所はやはり混雑している。室内には5、6人がいた。この宿にいる人種は様々である。アジア系、ヨーロッパ系、ヒスパニック系に分けられた。インド系やアフリカン系は少数だった。歯ブラシを口に突っ込みながら見るともなしに周りを眺める。すると洗面所の出口あたりに、古びたコンドームの自動販売機があることに気がつく。この自動販売機は、実際に使われているのだろうか。このバックパッカーには、全体の三分の一くらいの割合で女子がいる。晶馬と同じくワーカーである彼女たちも20代であり、朝の彼女たちは瑞々しく魅力にあふれていた。彼女たちは例外なく農作業に従事していることから化粧っ気はあまりないが、太陽に焼けた肌にさっぱりと着たタンクトップ姿はとてもきれいだった。そんなことをぼんやりと考えていると、時計の針は集合時間の5分前を指していた。部屋に戻った晶馬は、タオルとミネラル・ウォーターとクラッカーを古いレジ袋に突っ込み、ロビーへと急いだ。集合場所が宿の中なので通勤にかかる時間はほぼ無いと言える。5時をすこし過ぎた頃に、オーナーがやってきて、グループの人数の確認をし、全員を外へ出るように促した。外気はスッと張りつめており肌寒さを感じる。晶馬は半袖でやって来たことを少し後悔していた。宿の目の前に止められたオーナーの車はピックアップタイプだ。乗り合わせるメンバー数は全員で7人。女子3人、男子4人という組み合わせだ。どうすれば7人が乗ることが出来るのだろうか、と疑問に思っていたがすぐに答えは提示された。二列シートのキャビンには、女子3人が乗り込み(なお、3人ともヨーロッパ系)のこる男子4人は、剥き出しの荷台に載せられた。僕らを乗せた車は、マクリーン・ストリートを抜け、信号のない道をスピードに乗って走っていく。晶馬は後方へ流れる風景を見るともなしに目で追っていた。バンダバーグの町の中心からどんどんと遠ざかっていく。我々はどこへ連れていかれるのだろうか。乗せられたピックアップトラックの荷台にはシートベルトはもちろん座席もないものだから、カーブの度に振り落とされないようしがみつくほか方法がない。車は10分ほど走り続け、完全に町の中を抜け出していた。風景は緑とも茶色ともつかぬ淡い色彩にあふれていた。広大な大地、すべてが一枚の布のようだった。トラックは畑の中のただ一本の道をひた走っている。流れていく景色は見えるものの、車の正面はキャビンが障害物となっていて、よく見ることができない。変わらない風景が続き宿からどのくらいの距離が過ぎたのか分からなくなっていた。肌寒さがいよいよ寒さに代わり、荷台に座っていることが苦痛と思われるようになったころ、突如車が左に傾いた。バランスを崩しそうになりつつ、ピックアップ・ボーイズは挙動に耐える。間もなくして、車は停車した。荷台に立ち上がって、正面の様子をみてみる。そこには大きめのプレハブ小屋があった。その両脇には、いくつもの温室が並んでいる。今日の仕事場はここなのだろうか。荷台から降りようとする晶馬をオーナーは制止した。「男は別の場所だ。もうしばらく乗っていろ」晶馬はオーナーと共に建物へ歩いていく女の子たちを見つめながら、心のうちで乏しく消えてしまった希望をひそかに慰めた。ピックアップ・ボーイズを乗せたピックアップは、さらに畑の中の一本道を進む。ついに降ろされた場所は半エーカーほどの大きさの畑だった。巨体を引きずり出すように車から出てきたオーナーは、おもむろにオーナーが地面に鍬を差し込んだ。掘られた地面からゴソゴソとなにかを探している。ついに引っ張り上げられたその手には、作物の根っこが握られていた。農地整理という仕事がどんなものなのか見当がつく。この畑はすでに作物の収穫が終わっている場所で、土に埋もれている根っこを取り出す必要があったのだ。数回繰り返して実演して見せたところで、オーナーは僕たちにやってみるように指示を出した。畑はひと通りトラクターで掘り返されており、鍬と手で掘ると抵抗なく根っこに到達した。これを一つ一つ取り出していく。列の終わりは100mほど先にあるようだ。ピックアップ・ボーイズの4人は、それぞれの列を与えられ、作業を開始した。朝もやの中、黙々と作業を続けた。気が付いた時にはオーナーはすでに車とともに現場を離れていた。最初こそ、隣の列に負けないようにと互いに競い合う気配があったが、列を何度か折り返し、太陽が高く登り始めると競走する気力もなくなってくる。作業中は世間話をするという雰囲気もなく、黙々と作業に当たった。11時くらいになり、オーナーが様子を見に来る。進捗を確認して、また帰っていく。僕は、今朝のトラック移動をしている時のことを思い出していた。荷台に載せられて公道を走ったことは生まれて初めての経験だった。図らずも頭の中では「ドナ・ドナ」が流れていた。いまごろヨーロッパ系の女の子たちは、空調の効いた部屋で出荷作業をしているのだろうか。昼になり、作業現場は休憩に入った。それぞれ手持ちの昼食を食べ始める。僕より4つか5つほど年上の、この現場のリーダーのようなヒスパニック系の男が、自分の国にいる彼女のことを話し始めた。
彼の名前はサルーと言った。サルーはよく日に焼けていて長身の体はより一層細長く見えた。鼻が大きいことを除けば端正な顔立ちの若者だったが、人を見つめる時の眼差しには粘りつくような冷淡さが見え隠れする。晶馬はすこし彼と距離を取っていた。だからこそ、サルーに話しかけられたことには驚いていた。「俺さ、カナダに彼女がいるんだよ。俺は彼女のことが好きなんだけど、たぶん彼女には好きな男がいるんだよね」彼は突如として語りだす。「俺の前に付き合ってたやつで、ひどいやつなんだ。泣かせてばっかでさ。それで俺が話を聞いてて、別れるように言ってやったんだよ。だって、彼女はあいつに尽くしてるのに、それに答えてやらないのは、なんかいやだろ?もっと大事にしてやるべきなんだよ」人と人とが初めて会話をする時、ある種の緊張を含んでいる。相手がどんな人かわからないうちは、尚更である。だから僕は彼の話を静かに聞いていた。サルーは話を続けた、「俺は、その男のこともよく知ってるんだよ。幼馴染みみたいなものでね。小さい頃は、よく3人で遊んだんだ。あるとき、3人で川に行ってさ。石を投げて、水面を何回跳ねるか競い合っててさ。そいつが一番上手くて、彼女が一番下手だった。それで、彼女は、そいつに投げ方を教わってたんだよ、そんな二人を見てるとなんかムカムカしてきてさ。ふざけたつもりで俺、そいつにぶつかりに行ったんだよ。そしたら、そいつちょっとよろけてさ、その拍子で彼女の被ってた帽子が川に流れてしまって」サルーは流れていく帽子を取るべく、手ごろな棒を探すためにその場を離れた。そして、手頃な棒を見つけて岸辺に戻った時には、すでに帽子は彼女が持っていた。「あいつは服をびしょびしょに濡らして岸から上がってくるところだった。俺さ、思うんだよ。そういうの、俺にはできないな、って。棒を拾って戻ったきた時、なんで俺が返ってくるまで待てなかったんだよって、正直いうと胸糞が悪かった。でも、あいつのしたことの方が正しかったんだと思う。手をこまねいて待っていても帽子は流されていくばかりだからね」サルーは話し終わると、照れ隠しのように煙草に火をつけた。サルーもまた悪いやつではないんだろうなと思った。思うに、彼は面倒見がよくて、仲間からも好かれている。人のために動いているものの、つい自分よりも周りを持ち上げて、自分は引っ込んでしまう。そして簡単に境界線を超えていく友人を羨ましく思っている。晶馬はただ「そうだね」と言った。歳を重ねると、また違った価値観に変わったりするのだろうか。冷静な彼と思い切った行動ができる友人を足して2で割った性格であれば…というところまで考えてやめた。そんなに簡単な話ではない、と思い直したのだ。様々な事柄にはたいてい表と裏があり、その中間を取ることが正解とは限らないのだ。
対戦相手を前にして、晶馬はリングの中央に立っていた。歓声とも怒号ともつかない声で会場は満たされている。人生にハプニングはつきものだ。ついさっきまで客の一人でしかなかった自分が、リングに立つことになるとは。のこのことリングへ上がった素人にたいして会場は一気に色めき立つ。観客は口々に「やってしまえ!つぶせ!」と叫んでいる。その声を聞きながら、お前がリングに立ってみろよ、小便ちびりそうになるぞと晶馬は思った。客席から発せられる声援は、すべてチャンピオンに向けられた言葉であり晶馬へ向けられたものではない。レフェリーが双方に近づきファイティングポーズを取らせ、腕を振る。会場の盛り上がりは最高潮に達する。リングの鐘が、カーンと響く…
晶馬は飛び上がるようにして起き上がった。その拍子に、上の段のベッドで頭をぶつけそうになる。3段ベッドの中段には天井が低い。T-シャツは汗でべとべとだった。窓が開いているが風が入ってこない。蒸し暑かった。それにしても嫌な夢だ、と晶馬は思った。なぜこんな夢を見たのか。夢はいったい何からできているのか。昼間にサルーから聞いた話が強く記憶に残っていたのかもしれない。夢だと分かっていても心臓はいまだ高鳴っている。手元時計の針を見ると、AM1時15分だった。明日も仕事で朝が早い。もう一度眠ろうとするものの、どうも寝付けそうにない。自分の周りにある空気が、固く、重いように感じられた。皮膚を境界線として内と外、膜でも張っているのかと思うほどに隔たりを感じる。きしむベッドの上を静かに体重移動し、そっと梯子を下りた。途中、ギッと音が鳴る。廊下は24時間電気がついているようだった。電灯のジーっという機械的な音と、どこからか入ってきている蛾がぶつかっている音以外は、何も聞こえない。廊下を渡るとき、古びたフロアカーペットのおかげか足音はしなかった。この時間に起きている人はほとんどいないだろう。この夜の雰囲気はさながら学生寮のようなものだった。廊下中央の階段を降りる。TVルームにも誰もいなかった。(誰かいれば話し相手になってもらいたい気持ちだったが、あいにくそこには誰もいなかった)晶馬は煙草を吸うつもりで中庭へと向かった。音もなく勝手口は開いた。晶馬とソフィアは、まさにそこで出会う。肩にかかるくらいの長さの髪を、高い位置でポニーテールにしているフランスからの女の子。彼女は物思いに耽るように椅子に座り、空を見ていた。
中庭へと続くドアを開け、数歩進んだところで晶馬はぎょっとして立ち止まる。誰もいないだろうと思っていた中庭に人がいることに驚いたのだ。時刻は深夜である。晶馬の足元で細かな砂利が音を立てる。彼女は晶馬を一瞥したが特に気にするふうでもなく、頬杖をついたまま何処かを見ている。宿の中庭は夜の間、外へつながる通路が閉鎖される。つまり宿泊客しか入れないようになっているのだ。彼女はそのことを知っていて、別段気にしていないのかもしれない。中庭が共有場所とは言え、深夜だった。日中であれば気にもしないことだったのだが、ここで鉢合わせたことを晶馬は気にした。彼は、わざとらしく音を立て中階段の方へ移動した。そして本来の目的であった煙草に火をつけ一服をする。見知らぬ女の子を不必要に警戒させたくはなかった。彼女と距離を取ったことで、晶馬は寛。晶馬は夢の断片を思い出すともなく思い出していた。いつからか、なにかに追いかけられる夢を頻繁にみるようになっていた。その何かというものが「なに」なのかは、いつもわからないのだけれど、夢の中で必死に逃げているのだ。夢なのになぜあんなに現実味をもって迫ってくるのだろう?何かから逃げているのだろうか。そうだ、僕は逃げているのだ…。晶馬が物思いに耽っていると、煙草の火はすでにフィルター近くまで到達していた。同じくして、ポニーテールの女の子が彼の方へ向かっていることを彼は認める。そして、彼女はこう尋ねるのだ。「煙草はある?」彼は鮮明にそのことを覚えている。
彼女は自分の名前をソフィアだと名乗った。晶馬も自分の名前を名乗った。二人の間には沈黙が広がる。人のことを見た目で判断するのは良くないと思ってはいるものの、晶馬は彼女がスモーカーであることが本当に意外だと感じていた。彼女の煙草のもちかた、灰の落とし方、それらが晶馬の目には、取って付けたように映った。晶馬は「煙草をよく吸うの?」と尋ねてみる。ソフィアは、本当はほとんど吸わない、といった。二人の間に静かな涼しい風が吹く。沈黙が続く。晶馬は、明日は仕事なの?と尋ねる。ソフィアは、違うよ。という。またしても沈黙。ただし、もう十分に晶馬の緊張は解けていた。彼女は元居た椅子に戻り、脚を組んで椅子に座っている。僕は僕で柱に持たれてリラックスしている。誰かと話をしたい、と思っていたが、誰かと同じ空間に居たいと思っていたのかもしれないな、と晶馬は思った。晶馬は見るともなくソフィアのことを眺めていた。ソフィアが煙を吐くときに向けた横顔は、ツンとした鼻が際立つ。晶馬は、ああ、西洋人の輪郭だよなという感想をもった。中庭には沈黙が続く。そして、虫の音が聞こえる。ソフィアの煙草がもみ消されるのを待って、晶馬は立ち上がり、僕は部屋に戻るよ、と言った。それを聞いたソフィアは「Goodnight」と言った。そして、自分のことを「ソフィ」と呼んでほしいと言った。「みんなそう呼んでいるから、だからあなたもそう呼んで」と付け足した。晶馬は、わかった、お休みなさい。ソフィ、と返事をした。晶馬が中庭の階段を上がり、自室に戻るとルームメイトはみんな静かに眠っていた。晶馬はベッドに潜り込みながら、自分の鼓動が速いことに気が付いていた。中庭での出来事を自分一人だけが知っているような感覚に、くすぐったいような、むず痒いような変な感覚になっていた。
翌朝、朝5時から夕方までの勤務を終えた晶馬は、日払いでもらった給料を数えてみた。昨日から働き始めて、手持ちは、130ドルほどに増えた。一日の収入は、平均時給12ドル×8時間(時々残業あり)=96ドル~108ドル。宿代が、27ドルなので手元には、だいたい毎日70ドル程度は残っていく。これまでのことを考えると、そう悪くない給料だった。シドニーに戻るにしても、賃貸料(ルームシェア)が200ドル/週くらいは必要になるし、すぐに仕事が見つかるとは限らない。だから、いまは出来るだけ貯蓄をしておきたい。いつもハングリー・タムで食事をしていると高くつくので、僕は初めて近くのスーパーに食品を買いに行った。料理は、日本でのひとり暮らしの経験があるから苦手ではない。とはいってもひとり暮らしでつかう食材はワンパターンになりがちだ。豆腐、味噌、めんつゆ、卵、米・・。日本ではだいたい、そういう物を食べていた。でもここは外国だから、都市部でないと日本の食材は簡単に手に入らない。オーストラリアのスーパーマーケットには、見たことのない多さのTボーンステーキ肉や、3L入りのアイスクリームが当たり前に並んでいて、食生活の違い、体格の違いについて納得する。スーパーで食材をえらぶ時の基準は決まっている。それは食べきれるかどうか、だった。バックパッカーはたいてい共同のキッチンであり、食材の管理も共同の冷蔵庫になる。食事のたびにグループの中に入っていくのは得意ではない。だから、いつでもコンパクトに管理できるものを選んだ。そして、栄養価の高いもの。そう考えていくと、食材はだいたいレパートリーが決まっていた。サンドイッチに使うナッツ入りの食パン、ハムなどの肉の加工品、チーズ、それから、トマトやズッキーニ、ビートルートなど、少しの手間でおいしく食べられる野菜。食事のメニューは代り映えのないルーティーンであり、いつも同じようなものだ。その日も、晶馬は野菜とハムのサンドイッチを作るために、共同キッチンへ行った。ビートルートを洗って、スライスする。チーズとハムを適当な大きさにり、はさんでいくと完成だ。複数回分を一度に作っておき、朝昼夜にこれを食べる。食事に彩りはないが、それで良かった。味に飽きたら、スナックやジュースで気分を変えればいい。今日作ったサンドイッチを持って、部屋に戻った。夕方6時ごろが最も賑やかになる、このバックパッカーは、住人ならどの部屋にでも自由に出入りできる気楽さを持っていた。スンはこの部屋のリーダー的な存在で、ベッドの段の移動希望があるときや、荷物の置場のルールを決めたりする時にはみんながスンを頼った。そんなふうに部屋の中で、一番長くいるスンにはさまざまな相談事が集まる。(シャワールームでの温度調整の妙技なども教えてくれた)日々の継続的な仕事の取り方を教えてくれたのもスンだ。スンは言った。「バックパッカーのオーナーではなく、発注元の農場主に役に立つ奴だ、と思ってもらう働きをすることだよ。そのうえで農場主からオーナーに口をきいてもらうといい。毎回ちがう現場に行くよりも、慣れている現場のほうが楽だろう?」と。スンの考えはいつもスマートで、彼は頭が良かった。世の中の渡り方を知っていた。仕事の振り分けには、あからさまな人種による差別があった。そのため、有色人種は体を酷使する炎天下での作業がおおく、まるで、ウシか馬のようにこき使われる。シャワールームの順番ですら、ヨーロッパ勢の無言の圧力があるなかでコミュニケーションを取りながら、機を逃さず事を為す。スンのふるまい方は実際、とてもスマートだった。そしてスンは顔が広い。この宿の中では、全員と知り合いなんじゃないかと思うくらい、どこへ行ってもうまくやっている。スンがやっていることはシンプルだった。だれとでも笑顔で、そしてジェントルマンに振る舞うことだった。その姿は、例えるならディズニー映画のアラジンのようで、いつもどことなく、おどけたような楽しさがあった。晶馬は思う。僕はダメだと。宿の中ではスンと一緒に行動することが多く、スンの連れという立場で通ったけれど、晶馬はスンのように振る舞えなかった。スンのように、誰にでも気さくに挨拶をして、だれとでも打ち解けてみたいと思う。けれど、あと一歩がなかなか踏み出せずにいた。グループで集まって部屋で話したり、遊んだりすることが苦手で、そんなとき晶馬は一人、よく中庭に逃げた。そこで晶馬は、持ってきたノートに日記を付けたり、思いつくことを書き留めたりして、大半の時間を過ごした。中庭に隣接するTVルームからは、大音量で流されている映画の音声が聞こえてくる。晶馬は思う。また僕は逃げている、内心では自分を責めながらも、その時間がどこか好きでもあるのだ混雑する夕食時を過ぎてしまえば、比較的キッチンは空いていることが多い。晶馬はいつもその時間を見計らってサンドイッチや飲み物をつくりに行っていた。キッチンでの用事をすませた後、ひとり中庭で過ごす。これもここでの日常でルーティーン化していることだった。中庭に面するTVルームの窓は開け放たれており、中からのにぎやかな音が漏れている。それらの発する音を聞きながら、心地よい夜風に当たっていた。集団の中に入って賑やかに振る舞うことは苦手だが、決して賑やかな場所が嫌いなわけではない。だから、晶馬は中庭を好んだ。この場所が、ちょうど良い距離感なのだ。明日は日曜日で、全員が休暇だった。夜が更けても、多くのワーカーがベッドへ行こうとしない、そんな夜だった。中庭にある木のテーブルはさまざまな人が行き交う。煙草を吸いにくる人、通話をしにくる人、置き忘れたビール缶を取りにくる人。晶馬はその場所を好んだ。しばらく誰もいなかったテーブルをはさんだ向こう側に女の子が座った。彼女は晶馬を見て「Hi」といい、持ってきていたノートに目を落とした。ソフィアだった。彼女に会うのは確か、3、4日ぶりだったと思う。晶馬もまた、ソフィアに挨拶を返す。テーブル越しの彼女とふと目が合った。初めて出会ったのが深夜だったから、よく見ていなかったけれど、長いまつ毛に縁取られた瞳がとてもきれいだった。よく見ると、目の色は緑がかった深い色だった。それを見て、晶馬は「構造が違う」と思った。日本人と構造が違いすぎる。この色を例えるなら、ガラス瓶の緑、あるいは、すこし深くなりかけた場所の海の色か…。晶馬はそんなことを考えていた。観察。晶馬にはそういうところがあった。こんなに見ていたら、変に思われてしまいそうだなと思い、晶馬は文庫本に目を落とした。しばらく静かな時間が過ぎた。そういえば、ソフィアに最初に会った時もこんな感じだったな。晶馬は本に没頭した。ところが、視線を感じるのは何だろうか。いやいや、自意識過剰なんじゃないだろうか。いつの間にか、TVルームも静かになっていて、随分と人も減っていた。もう、部屋に戻ろう。そう思って、立ち上がろうとしたときソフィアが「待って」と言った。目が合うと、「座って」という。「あなたの手をスケッチしているの。もう少しで終わるから。だから待ってほしい」視線の理由はそれだったのだ。晶馬は、黙って座りなおした。「本を、読んで」というので、言われた通りにする。しばらくすると、ソフィは満足そうな笑顔で「できた」といった。見せてくれた絵はお世辞抜きに上手だった。僕とソフィは多くの時間を共有した。その始まりは、この日を境にして始まっていたのかもしれない。
ソフィアと晶馬について。なにかの約束をしているわけではないけれど、夕食の後には、たいていどちらかが先に中庭へ来ていた。待つともなく相手を待ち、何をするわけでもなく、同じ時間を過ごした。ソフィが文章を書いたりスケッチをする側で、晶馬は読書をする。(ソフィのノートは、フランス語で書かれてある)静かになったキッチンへ入って行って、インスタントのコーヒーを淹れる。二人分のマグカップを準備する。ソフィがコーヒーを受け取りに来る。そんなささやかなこと。しかし、晶馬は胸があたたまる幸せを感じた。ソフィのスケッチは断続的に続いていた。僕は、スケッチの間ソフィに見つめられることが心地よかった。ソフィと僕は、決しておしゃべりではなかった。それは二人とも英語が母国語ではないという理由が大きかったのかもしれないけれど。スケッチをしている時、ソフィはさまざまな表情を見せた。真剣な表情で観察をするときにひそめられた眉、ゆるやかにカーブした長いまつ毛、細い首筋から伸びる肩も、すべてが華々しく、生き生きと呼吸していた。晶馬は、ブリスベンに至るまでの旅で、ほとんど全てを失っていたが、いまや彼はそれらの出来事をほとんど忘れていた。たったひとりの女性の登場によって晶馬の日常は一転していた。日々が重ねられるにつれ、二人の距離は近づいた。ソフィが顔を近づけてくるときはほんのり乳のような甘い香りがした。晶馬はソフィと過ごす時間を失うことが怖いとさえ思うようになってきていた。彼女のスケッチについて、描いたものを見せてと頼んでも最近は見せてくれなくなった。晶馬はソフィについてほとんど何も知らなかった。彼女が二ヶ月前にメルボルンから、バンダバーグへ移り住んできたことを除いては。
ここ数日間、日中の気温は35度を超えるほどに高い。今にも雨が降り出しそうな天候でありながら、雨が降らないという天候の日が続いていた。そんな中、突如の雷が響いたかと思うと、堪えきれなくなった空がいよいよ大雨を降らせた。晶馬はシティ・センター・バックパッカーに滞在して3週間が経っていた。ここ数日は大雨が降り続いていて仕事はキャンセルされている。収入もなく宿泊費と食費だけが掛かるのだった。晶馬は思う。生きるというのはお金がかかるものだ。バックパッカーには、たくさんのワーカーが溢れかえり、みんな退屈していた。晶馬は本を読むことにも飽き、宿の中をうろうろした。不思議なことにソフィアとはあまり出会わない。当然のことながら、晶馬もソフィアも、雨がふる中庭で相手を待つということはしない。いつも中庭で別れていくから、晶馬は彼女の部屋番号すら知らなかった。同室のスンと晶馬は暇つぶしにTVルームへ行くことにした。予想通り、TVルームは人であふれていてソファは埋まっている。誰かが選んだ、バック・トゥ・ザ・フューチャーがテレビに映されていた(物語はまだ序盤のようだ)。皆、映画を見るともなく鑑賞していて、複数のグループごとに固まっていた。どこか腰掛けられる場所はないか、と探していると、二人がけのソファがたくさん並んでいるなかで、一人分ずつ空いているソファがふたつ隣あっていた。「あそこにしよう」スンと晶馬は別れて腰掛けた。TV画面に映し出される物語が進むにつれ、外の雨はどんどんひどくなってきた。(たしかこの映画のクライマックスも雷が鳴っていたような)窓の外で強烈な閃光が走る。ちいさな叫び声が起こる。建物が揺さぶられるほど大きな落雷の音が建物を包み込み、宿は停電した。テレビ画面は暗転。部屋には、映画の中断を惜しむ声と、落雷に怯える声とが溢れていた。幸い、夕方には早い時間帯だったので、停電しても部屋は薄く明るさを保っていた。ブレーカーの位置を知っているものが、管理室へと向かった。そこにスンの背中も見えた。晶馬は雷をこわいとは思わない。瞬発的に響く大きな音も、雷光の瞬間に全てのものが真っ白くホワイトアウトするのも、僕よりも遥かに大きな存在を感じられてある種の感動すらする。視聴覚から入ってくる情報は晶馬をわくわくさせる。パッと、部屋にあかりが戻る。修理に行ったメンバーがうまく直してくれたのだ。再度、テレビにバック・トゥ・ザ・フューチャーが流れる。落雷による一連の出来事が落ち着きを見せ、部屋にはまた、気だるいまどろみが戻っていった。雨の日は眠いのだ。
晶馬は、いつの間にか眠り込んでしまっていた。TV画面では映画のエンドロールが流れている。スンのほうを見やったが席にはいなかった。彼を探すように部屋を見渡すと、目線のちょうど先に彼はいて、友人とげらげら笑いながら立ち話をしている。寝違えたのか首が痛い。相席を見ると、いつの間にかソフィが座っていて、僕は素直にどきりとする。彼女はいつからここにいたのだろう?まぶたを閉じていて、彼女も眠っているようだった。晶馬の胸が高鳴った。二人で中庭で過ごすことが日常となっていた。その時間は、控えめに言ってもとても心地の良いものだった。晶馬の気持ちは乱れた。ソフィに対して恋愛感情は持つべきではないと思っていたからだ。それは、この現状がとても稀有なものであるからだ。ソフィアがいつまでバンダバーグに居られるのか、僕は知らない。いつかの、あるいは、すぐさきの未来で別れなくてはいけないことを知っていて、好きになるべきではない。その気持ちは咎めのように僕の心に碇を下ろしていた。変化に富んだ数ヶ月の間に、晶馬は大人になりつつあった。晶馬は思っていた。一過性の感情に身を任せることなく、理性を優先するべきだ。ときには損得を計算し、確実に仕事をこなすべきた。それでいて必要以上に主張するべきではない。端的に言えば、必要以上に人に干渉するべきではない。それこそが、発生するかもしれない種々の問題から遠ざかるための正しい判断だと、信じていた。晶馬は自分を律することや、感情。コントロールすることを覚えつつあったのだ。けれど、ソフィの寝顔を見つめた時に、晶馬の心は激しく揺れた。感じた気持ちは疑いようのない事実として晶馬の心に焼き付けた。晶馬は気づいていた。自分を守り、問題を寄せ付けないこと。傷つかないために作り上げた、世界に対する高い壁ができあがりつつあった。そんなものは役に立たないことを。ソフィは特別な力を持っていた。心の障壁に出来た隙間から(まるで土壁の水分が抜け出し、ひび割れていくかのようにできたやむを得ない隙間から)彼女はやすやすと侵入した。そして我が優秀なる門番はソフィの通過を黙認すらしていた。隣で眠るソフィの前髪をすくい目元から除けた。少女のように安心して、すっかり眠り込んでいるソフィの寝顔を見つめていると胸が締め付けられる思いがした。今にも障壁は崩れそうにだった。晶馬は自分自身を肯定するかのように、ソフィのおでこに軽くキスをした。外ではまだ雨が降りつづいていて、その音は、彼女との隔たりをより濃密にさせた。にわかにソフィが目を覚まし、僕たちは見つめ合う格好になった。とたん、ふたりの間に磁場が出来たかのように引き寄せられふたりの唇は重なっていた。逃れようはなかった。他にいったい、どんな選択肢があったというのだろうか?
ひと月後の午後、僕たちは真夏のブリスベン国際空港にいた。ソフィの帰国に立会うためだ。この一ヶ月間、ソフィと僕は、できる限りの時間を一緒に過ごした。食材の買い出しも、夕食作りも、中庭で過ごす夕べの時間も、大切な慣わしのように続いていた。ソフィの滞在ビザが残り少ないという事実を知ったのは、停電のTVルームを過ごした日の夜だった。それからは一日いち日が駆け足で去っていくように感じられた。限られた時間の中で僕たちは貪るように繋がりを求めた。二人の間には依然として会話は少なかったが、その代わりにソフィのスケッチがあり、僕の音楽があり、肌どうしの触れ合いがあった。今や二人で過ごすことがファーム生活での基盤となっていた。その日のブリスベン国際空港は旅行客が多く、そこにいる全員が楽しみのための興奮で満たされているようだった。仮に、北半球から来た人からすれば、南半球のオーストラリアは真逆の季節である。冬の地から真夏にやってきたことによる環境の変化は、無条件に人間を活動的にさせるものなのかもしれない。けれど、それとは対照的に僕たちの間には拭いきれない寂しみが纏っていた。場の雰囲気に圧倒されそうで、晶馬は努めて笑った。空港内では、航空券の発券カウンターにいるときも、ターミナルのカフェでテイクアウトのコーヒーを待つときも、souvenir shopで彼女の家族のための土産物を選ぶときも、ソフィは、決して僕の手を離すことはなかった。晶馬の手はごつごつして黄色く、ソフィの手は滑らかに白かった。僕はソフィの手を握り返した。そうしながら、僕は、僕自身のことを慰めていたのだ。いくつかの出港準備を終え、搭乗待合の椅子に落ち着くと、タスクをこなしたことによる小さな達成感を二人で感じていた。ソフィには笑顔が見られ、僕は安堵した。またいつでも会えるような、短期間の小旅行へ彼女を送り出すような、不思議な気楽ささえ感じていた。テイクアウトしたコーヒーを飲んでいると、ソフィが搭乗する予定のパリ行きの便名がモニターに表示された。その表示は、晶馬とソフィを一気に現実へと引き戻した。ソフィと目があっても僕は気の利いたことも言えず、ただ目を逸らしてしまった。時間が経つにつれて出港モニターから、飛び立った便が消えてはまたひとつ新たな便が追加される。更新され続けるモニターを見ていても、すべては無意味な記号だった。モニターの中のデジタルフリップが、パタンと音を立て、時を進めた。それは、まるで罰の宣告を待つような気分にさせる。パリ行きの便を表示した列だけが僕の目を釘付けにした。支えきれない胸の淀を身体中に感じながら、僕たちは、しずかに並んで椅子に座っていた。ソフィの手が、晶馬から離されたのはその後しばらく経ってからだった。搭乗の時刻が近づいているのだ。ソフィは立ち上がり正面を見つめた。空間を切り裂くような飛行機の轟音が、遠くか、近くかで聞こえる。様々な人々が行き交う空港で、僕はただ、ソフィの後ろ姿だけを見つめている。他に何も見えない。にわかに晶馬の方を向いたソフィは笑っていた。笑顔である事を意外に思う自分が卑屈で嫌だと晶馬はった。ソフィの笑顔に嘘はなく、いつもの凛とした澄んだ目をすこし細めてこう言った。「わたしは晶馬といられて楽しかった」久しぶりに聞くかのように。深く胸に響くソフィの声。聴き漏らしたくないと思うように僕の耳が痺れる。僕は言った。もちろん僕もそう思っている、と。ソフィは続けた。「嬉しかった。中庭で、出会ったこと」「そうだね。ほんとうに会えてよかった」もうそれ以上、語るべき言葉はないように思われた。あるいは、語ってはいけない言葉についても。僕は立ち上がり、ソフィに寄り添った。もともと英語が上手ではない二人。今に限っては言葉は唯、不要なものだった。晶馬とソフィは示し合わせたように、きっかり一度だけ抱擁した。ソフィはたくさん晶馬の匂いを吸い込む。晶馬はソフィの柔らかい髪を撫でる。最後のハグから離れた僕たちは、いまやもう「僕たち」ではなくなった。それじゃあ、と言って搭乗ゲートへ向かう間、ソフィはついに一度も後ろを振り返ることはなかった。晶馬はただ、他の旅行者と見分けがつかなくなるまで、ソフィの背中を見つめていた。
僕たちは、未来に一切の約束もしなかった。連絡先も交換していない。それは、僕たちが、決して口には出さなかったけれど、そうなるだろう未来を、出会った時から共有していたからだった。だから、僕に残ったものはソフィに関する記憶だけだ。ソフィのいない空港の待合室で晶馬は座っている。さっきまでソフィが座っていた座席に手を置くと、そこからはひんやりとした冷たさを感じる。晶馬は思った。僕はソフィのことが大切だった。もはやここにソフィの存在はない。手のひらに彼女の痕跡の何もが残っていないことを確認する。ブリスベン国際空港−−−。数ヶ月前、荒んだ生活の中、誰とも出会えなかったのもこの場所だ。ついに振り返らなかったソフィが、どんな顔で居たのかを、僕は知らない。けれど、きっとソフィらしい微笑をたたえていたはずだと僕は思っている。ソフィのことだから、と晶馬は胸の内で思った。晶馬は椅子にもたれ、ふうっと息を吐いた。彼の顔には微笑が戻っている。参ったな、やっぱりソフィには敵わない。晶馬は思った。彼女はいつもそうだ。それでも、すこしくらいは涙が滲んでいてほしいとは思うけれど。
「さようなら、ソフィ」
2022 Memories in Australia. (c)Naohiro Kosa
(Chapter 4 は来週の日曜日、正午12時に公開されます)